『本屋の人生』(伊野尾宏之 著)

 小学校のクラスメイトには、豆腐屋の子、米屋の子、文房具屋の子がいた。『本屋の人生』を読んでから、そこに伊野尾君という本屋の同級生がいたような気になっている。彼は他の子よりも体が大きく、厳めしい顔をしているが、実際は不器用で気が小さい。そして特段、文学が好きというわけでもなかった。すくすくと身長が伸び、大人になった彼は、フリーターでふらふらしたかと思ったら、家の本屋で働き始める。プロレス雑誌の記者になるという夢に破れ、他にやりたいこともなければ、本屋という家業を継いでみるのもいいだろう。そんな風に、とりあえずで始めたはずが、気付けば26年の月日を書店員として過ごし、伊野尾君の髪はだいぶ白くなっていた。

 伊野尾君、本屋のおやじになる人生は、どうでしたか? まだ死んではいないけれど、彼の人生はいったんここで区切りを迎える。新宿区とはいえ、下町らしさの残る中井駅前の商店街で69年続いた伊野尾書店は、2026年3月をもって閉店。その長い歴史の終わりの部分に、私は偶然関わることになった。本業であるストリッパーの傍ら、元々書店員仲間だった彼の店を手伝う。そこで初めて知った上司としての伊野尾店長は、それほどやる気に満ち溢れているわけでも、本屋業が楽しくてたまらないという風にも見えない、ただの本屋のおやじだった。老舗チェーンの大型書店でビシバシ教育された私からすると、彼の接客はややぶっきらぼうで、興味のあるプロレス以外の世間話も上手くない。

『本屋の人生』が店頭で飛ぶように売れている頃、同書に《お客さんとのコミュニケーションを取るのが上手なスタッフ》として登場するNさんと、閉店作業後に真冬の寒空の下、まるで帰るのが惜しい高校生みたいに、延々「伊野尾宏之」について語り合ったことがある。店長の本をお互い読み終えた後で、言いたいことは山ほどあった。やっぱり店長の文章はいいよね。でもこれだけの視点があるのに、どうして我々の気持ちは細やかに汲み取れないのかしら。あんなところが書けていない、こういうところがわかってない。褒めから始まったはずなのに、ダメ出しが止まらない。特にクレバーでズケズケとした物言いのNさんの突っ込みは、本人に聞かせたら大きな背を縮ませて、文庫の裏に隠れてしまいそうなほど、的を射ていた。それなのに、まだまだここで働きたいという思いが、我々には当たり前のように共通していて可笑しかった。

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 本屋の仕事には、伊野尾書店には、そして伊野尾宏之という本屋のおやじには、一体どんな魅力があるのか。冒頭の正直すぎる閉店の挨拶は彼の美点であり、俯瞰で描かれる伊野尾書店物語の他人事感は彼の強さであり、店長が見る伊野尾書店の風景は、彼の無意識なる優しさと愛嬌が滲み出ている。うーん結局、大好きか!

いのおひろゆき/1974年東京・中井生まれ。99年、有限会社伊野尾書店に就職。2017年より代表取締役。『本の雑誌』等に寄稿。伊野尾書店は26年3月31日で営業終了。同じ場所で6月より「BOOKSHOPトランスビュー 大江戸中井店」が開業する。

あらいみえか/1980年、東京都生まれ。書店員を経て現在は踊り子・エッセイストとして活動。著書に『きれいな言葉より素直な叫び』等。

本屋の人生

伊野尾宏之

本の雑誌社

2026年1月23日 発売