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「初めて社会とつながっている実感が持てた」 KaoRiさんが語る「アラーキー」以前とこれから

語られてこなかったKaoRiさんの素顔

2018/08/26
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 KaoRiさんが2001年から2016年にかけて、アラーキーのモデルをしていた。

「それだけ続いていたのなら、そのまま黙ってやっていればいいものを。やめるにしても、騒ぐ必要が?」

 という向きもあるかもしれないが、それは違う。

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「有名写真家アラーキーのモデル」というのは、彼女の生のある一面に過ぎない。それ以前に彼女は、自分の身体を使って踊り、表現をすること。その楽しさを人と共有することを追求する表現者であり続けてきた。

 そこが尊重されず、踏みにじられるようなことがあれば、声を上げずにいられないのは当然だったのだ。

 ならば「告白」以前の彼女の歩みを、教えてもらうことにしよう。

「告白」以前のKaoRiさんの歩み

 思い返せばものごころついたころから、踊ることとともに自分の生活はあった。KaoRiさんはそう述懐する。

「母親がつけていた日記を読ませてもらったことがあります。そこには、1歳のわたしが爪先立ちで歩いたと書いてあって。この子はきっとバレエをやるだろう、教室へ入れる3歳になったらすぐ連れていこうと母は決めたそうです」

 

 実際に通い出してみると、案の定、のめり込んだ。

「家でも勝手な振りをつけて、いつも踊っていたみたいです。ジャンプが好きだったから、ぴょんぴょん跳ねて。小学生になると、バレエの基本動作ピルエットを家で繰り返し練習していたのを覚えています。学校よりもレッスンのほうがずっと好きだったかな」

ヨーロッパでコンテンポラリーを学びたい、と思ったものの……

 当時通っていたのはロシア・バレエ・インスティテュートで、レベルは高かった。自由な動きが好きだったこともあって、クラシックバレエよりコンテンポラリーダンスのほうが向いていると先生から言われた。

「ただ当時はコンテンポラリーダンスの情報が少なくて、どういうものだかよくわからなかった。母がどこかから見つけてきてくれたモーリス・ベジャールやピナ・バウシュの映像を、食い入るように観ました。とくにベジャールは衝撃的でしたね」

 ああヨーロッパでダンスを学んでみたい……。高校生のときにそんな気持ちが芽生えるも、思いとどまらせる理由がひとつあった。家族が何より好きで、遠く離れて暮らすなんて考えられなかったのだ。

 それで一般の大学を受験して合格。卒業後は進学する予定だったのに、突然彼女に不幸が襲う。

留学を志向するきっかけとなった、肉親の死

 病気を抱えていた最愛の母親が急逝した。高校の卒業式の2日後のことだった。

「それで目覚めました。わたしは日本の大学に通っていちゃいけないんじゃないかと。というのも母は常々、日本の大学に行ってもやることなんてない、海外へ出るべきだと言っていたんです。それで母の言葉の通り、日本の大学はやめてヨーロッパへ長期留学へ出ることにしました」

 これからは身体表現を極めることに時間を使おう。自分の肉体で何ができるか、身をもって体験していこうと、心に決めた。

「というのも母の死に際して、人の肉体がこういうふうに変わるのかということを、目の当たりにしたから。どれほど自在に動いていた身体だって、あるときを境にいとも簡単に灰になって、消えてしまう。そう考えると肉体そのものをより愛おしく感じたし、動く身体というものにどうしようもなく魅かれるようになりました」