パリで出会った「写真」という表現手段
留学ははじめにスイスへ向かい、その後パリに身を置いた。コンテンポラリーの名門マーサ・グラハム・スクールに入学を許され、こんどはニューヨークへと移る。さらには以前から憧れていたイスラエルのバットシェバ舞踊団での研修も受けた。
「いろんな場所で踊りながら、いつも自分が本当にやりたいことを探していました。ダンスカンパニーで踊ることなんだろうか。それとも自分で作品をつくって演じることなのか、と」
拠点にしていたパリでは、写真家との撮影セッションも経験した。
「こちらは思うがままに踊る。あちらも好きなようにカメラで瞬間を切り取っていく。互いが自由にふるまい、それで表現が成立していくのは驚きだったし、心地いい体験でした」
「俺のミューズ」という言葉から、変化していった関係性
2001年のこと。人づてに出会ったアラーキーの撮影モデルを初めて務めた。そのころは日本と海外を行ったり来たりの生活になっており、帰国すると声がかかり、しばしば被写体になった。
「当初は波長が合うと感じていたし、写真に撮られることで気づかされたこともたくさんありました。カメラの前で踊るときは、ふだんよりゆっくり大きく、撮りやすいように動いたほうがいいとか、自分なりに研究もしました。自分の踊りに新しい要素を取り入れることにもつながったと思いますよ」
いつしか、アラーキー作品ではおなじみの顔となり、写真家自身が「俺のミューズ」と発言することも増えていった。知らず、イメージを大切にせねばとの意識が働くようにもなった。
「作品の中の私、を壊してはいけない。本来の自分を表に出してはいけないという気持ちが強まり、自己肯定感が低くなってしまった。暗にそういうことを求められているようにも思っていましたし。なんかおかしいと思ってはいたけど、従わざるを得なかった。まあ自分も悪かったんですけど。
もう一度、ちゃんと自分を信じてやらないといけない。そう考え、自分でスタジオを開いてダンスを教えていこうと決めました」
そこで2011年、現在の「ミクロコスモス舞踊研究所」につながる教室を開いた。