「今、解散したら伝説として語り継がれる」と全員一致

――そこから、TAKUYAさんの楽曲センスが徐々に認められていったんですね。

TAKUYA バンドがブレイクしたのが『Over Drive』(1995年)。CMのタイアップ曲で、コンペを経てクライアントに僕の曲を選んでもらったんですが、ここで人生が一変しましたね。「誰でも良かった」ギタリストではなくなった。

 ジュディマリの初期は恩田快人さん(ベース担当、バンドのリーダー)が書き溜めた曲を歌っていたけれど、ストックがなくなっていってたんです。忙しすぎて、新曲を作る時間がどんどんなくなっていて。

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 そんなとき、僕が覚醒した。絶好調モードに入って、バンド後期は僕の楽曲が増えていきました。あのとき覚醒できてなかったら、状況が変化するスピードにバンド自体もっと早く押しつぶされていたと思います。

徐々にバンド内で存在感を高めていった ©山元茂樹/文藝春秋

――ジュディマリの活動期間は、長いようで10年にも満たないんですよね。解散のきっかけは?

TAKUYA 恩田さんが辞める話もたしかにあったけど、関係会社は「今期の売り上げが、来季の売り上げが」って言ってくる。一番最初に解散を口にしたのは当時の事務所の社長さんかな。スタッフも増えて大所帯になって、やるのかやらないのか、はっきりしてほしいという雇用の問題もあったと思います。

 大成功してかっこよく解散しようって話はファーストアルバムのプリプロ合宿の時からメンバーでしていたけど、いよいよその話を本気でする日が来て「今、解散したら伝説になれるときが来たね」と。

「XジャンプはTAKUYAが作った説」の真実

――TAKUYAさんも、やり残したことはなかったんですね。

TAKUYA やり残しはないですね。まだやれることはあったけど。東京ドームのステージに立つという目標も複数回叶えた。

 僕は16歳のときに、BOØWYの解散ライブを東京ドームで観てるんです。その時の布袋寅泰さんを観て「絶対に僕もあの場所に立つ」って決心した。ジュディマリでドームライブをやったときに、「とうとう来たぜ、この景色」と思って演奏を始めた。すぐに「布袋さんは逆側に立っていた」って気づいて、マイクで一緒にバックコーラス歌いに恩田さんの方に行きましたけど(笑)。

ジュディマリでは、やりたいことをやりきったとすっきりした顔で語る ©山元茂樹/文藝春秋

――他のバンドで言うと、X JAPANの『X』という曲で、ファンが手をクロスさせて跳ぶ「Xジャンプ」はTAKUYAさんのアイデアだと一部で言われていますが、真相はどうですか。

TAKUYA 僕が15歳のときにX JAPANにHIDEさんが加入して、そのツアーから関西方面は全部観に行っていたんです。当時、最前列で僕を含めてヘドバンしてた軍団がいつのまにか友人グループになっていました。僕が上京した後にその1人が電話をくれて。「Xジャンプをやりだしたらめっちゃ流行ったでー」と、自慢げに。だから僕がではなくて、僕たち関西の最前列グループが作ったというのが真実ですね。