開国が感染症を招いた
日本は開国とともに海外から流れ込んだ疫病に苛まれます。1868年に誕生した明治新政府にとって、最も厄介な伝染病はコレラでした。
激しい下痢と嘔吐を繰り返し、脱水症状によって死に至らしめるコレラの最初の流行は、文政5(1822)年。まだ鎖国の頃ですが、外の世界との玄関口だった長崎から上陸したと考えられています。
安政5(1858)年には、江戸の街がコレラの脅威に襲われます。感染源は米国ペリー艦隊の旗艦ミシシッピー号で、中国を経由して長崎に入った際、乗員にコレラ患者が出ました。この年、日米修好通商条約を含む5カ国との不平等条約が結ばれ、それまで鎖国政策を続けて来た日本では国民に不安が広がりました。そのうえ外国から伝来した感染症の流行が重なったのです。江戸の死者数は数十万との記録があるほどで、「その怨みは黒船や異国人に向けられ、開国が感染症を招いたとして攘夷思想が高まる一因になった」(石弘之『感染症の世界史』)ともされています。
明治10(1877)年、西南戦争の折りには、海を隔てた清国でコレラの流行が始まりました。大久保利通らが率いる新政府は内務省衛生局を使ってこれに素早く反応します。過去のコレラの流行からも明らかなように日本は海外からくる未知の疫病に対し、非常に脆弱だったからです。加えて日本に入港する外国艦船を検査しようにも英国公使からは不平等条約をもとに拒否もされます。
清国でのコレラ流行を外務省からの報告で知った衛生局長の長与専斎らが中心になって早急に対応策をまとめます。8月に内務卿・大久保利通の名で「虎列剌(コレラ)病予防法心得」という通達を府県に発しました。この通達には「石炭酸による消毒や便所・下水溝の清掃などの予防対策」「患者発生の届け出」「避病院の設置」「清潔方法・消毒方法の施行」などが記載され、その第13条では「『虎列剌』病者アル家族」で看護に当たる者以外は、他家に避難させて「妄(みだ)リニ往来」することを許さず、とある。今の新型コロナの隔離政策とほぼ同じことを目指しています。この布告は近代日本における防疫の嚆矢といえるでしょう。西洋医学は明治2年に許可されますが、それを参考にしてのことでした。
