なお、就職しても役員になれない事例は、総領家の北家だけではない。「三井十一家」の戦後の当主はいずれも三井財閥直系会社の役員になっていない。直系会社に就職してその関連会社に転出して役員になったり、傍系会社に就職して役員になった事例は下記の通り。
・松坂家10代・三井高周(~2010)三井物産→三井石油開発監査役
・五丁目家三代・三井照夫(1940生まれ)三井信託銀行→オリエンタルランド常務
・本村町家四代・三井高尚(1943生まれ)トーメン監査役
ちなみに、高公は平成まで生きながらえた。相続対策から1986年に孫の三井永乗(之乗の子。1972生まれ。2009年に八郎右衛門を襲名)を養子に迎えたのだが、相続税を工面することができず、屋敷の一部を競売に掛けて物納した。それを競り落としたのは三菱地所だという。これも三菱・住友だったら、グループ企業が何とかしたに違いない。
躰よく利用される三井家
三井グループの専門経営者は三井一族を遠ざけ、縁を切ろうとした。しかし、使える時には使うのである。
戦後、日本企業においては、海外からの技術導入が盛んであったが、技術供与を受けるに当たって、三井グループ会社であることは大きなアピール・ポイントになった。たとえば、東洋レーヨン(現・東レ)が米デュポン社と契約を交わした際、社長・田代茂樹はわざわざ三井家の当主を宴席に呼び、東レが三井財閥の系譜を引く企業であるとアピールした。
三井八郎右衛門(高公)の述懐によると「戦後も三井という名前については、諸外国、特にアメリカでは高く評価されてはいたが、反面、日本経済に対する認識の一つとして、財閥解体、集中排除法などで企業は弱小細分化され、また、三井グループも縦横の繫りがなくなり信頼置けないのではないかとの見方もありました。偶々、アメリカのデュポン社と契約の際、滋賀工場見学の機会に京都の岡崎の『つるや』で私に同席を求められ、席上で『三井グループは健在である。その証左には三井の名を冠しない東洋レーヨンのためにすら、三井家の当主が出席されている』と〔田代社長が〕強調」(『田代茂樹 遺稿 追悼』)していたという。つまり、三井家の当主は躰よく利用されたのである。