現在の三井物産と似て非なる「三井物産」

『東大紳士録 会社編 昭和30年度版』によれば、三井高遂と三井高篤が三井物産の嘱託に就いている。『東大紳士録』なので、東京大学OBしか掲載されていない。だから、この二人以外の三井一族も三井物産の嘱託に雇傭されていた可能性が高い。「十一家のご主人方を関係の深い各社で引き取り、お世話する案」が猛反対でたち消えたのにもかかわらず、なぜか。

 実はこの「三井物産」。戦前の、いや現在の三井物産とも似て非なるものなのである。

 第二次世界大戦で敗戦を喫した日本では、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策で財閥解体、過度経済力集中排除法により高シェアの独占企業が解体された。具体的には、日本製鉄が四社、三菱重工業・王子製紙が3社に分割された。しかし、そうは言っても3、4社である。三井物産は百数十社に、三菱商事は100社以上に解体させられた。しかも、その事業再開には制約が課せられた。

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 そのうちの一つが「この覚書の日付以前10年の間に、役員・顧問・在内外支店支配人または部長であった者が集合して新たな会社をつくることを禁止。また、同一会社にこれらの人びとの2人以上が雇用されることを禁止」。また、「これら役職員以外でも、100名以上が同一会社に雇用されることを禁止」という厳しいものであった。

 三菱商事は将来の再統合を見据えて部・課単位に「新会社」を発足させ、占領政策が緩みはじめると、互いに合併を重ね、1952年に3社に統合。光和実業が三菱商事と改称して、1954年に3社を吸収合併し、「三菱商事の大合同」を成功させた。

 筆者が起業して、新設した会社に「三菱商事」と命名しようとしても、それは受け容れられない。既に「三菱商事」という商号が登録されているからである。三菱商事が解体された時、旧総務部職員が設立した「新会社」光和実業が、三菱商事という商号を管理していたから、大合同にあたってスンナリと三菱商事を名乗ることができたのである。

三井物産本社ビル(東京都千代田区大手町) ©AFLO

 一方、三井物産も同じ頃に、第一物産と室町物産という二つの「新会社」に集約されつつあった。両社は大合同にあたって、条件が有利になるように虚々実々の駆け引きを繰り広げた。ここで面倒なことに、「三井物産」の商号を預けられた「新会社」の日東倉庫建物が商号復帰し、1953年に室町物産と合併して三井物産を名乗ってしまったのである。

 そこで、第一物産は対抗策として1954年に三井木材工業を合併して「新三井物産」に社名変更すると発表したが、グループ各社からの圧力で社名変更を断念した。こうして、三井物産の大合同はこじれにこじれ、三井物産(旧・室町物産)が業績不振に陥り、弱気になってやっと合併協議が煮詰まり、1959年2月に第一物産と合併。三井物産の大合同となった。三菱商事に遅れること5年、この間、三菱商事は着々と業績を伸ばし、以来、三井物産は三菱商事の後塵を拝することになった。迷走劇は高くついたのである。

 さて、1955年当時の三井物産とは、大合同に向けて条件闘争していた旧・室町物産のことである。第一物産が総合商社としての陣容をほぼ整えていたのに対し、三井物産(旧・室町物産)の実態は金属専門商社に過ぎず、条件的には不利だった。そうしたことから、少々汚い手を使っても三井物産という社名を手に入れ、三井一族を非常勤の嘱託として採用して本流であることを証明したかったのだろう。