大航海時代以降、地球規模で生じた人類の大移動。それは多くの衝突とともに、新しい文化を生んだ。ニューオリンズ、ニューヨーク、リオ、ラゴス。大都市を舞台に、ジャズをはじめとするポピュラー音楽の時代が幕を開ける。ジャズ誕生の地として知られるニューオリンズでは、意外な人物が「新しい音楽」を「耳撃」していた――。音楽評論家の村井康司氏の新刊『世界史はジャズで踊る』(文春新書)より一部抜粋してお届けする。
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ラフカディオ・ハーンの手紙から
〈「ティグ、ティグ、マラボアン/ラ・シェルマ・シュ・タンゴ/レジューム!」
私は黒人の看護婦にその歌の意味を尋ねました。彼女は笑って首を振って「これはヴードゥーの歌です。私はそれが何だかわかりません」「ヴードゥーの歌を知らないのか?」「ヴードゥーの歌は知っていますが、その意味はわかりません」
次に彼女は今まで聞いたこともないような、荒唐無稽で奇妙な小唄を歌いだしました。私はその言葉を書き留めようとしましたが意味がわからないので、フランス語の発音に従って音だけを書かなければなりませんでした。
「ヨ・ソ・ダン・ゴド/エル・マンデ/ヨ・ソ・ダン・ゴド/エル・マンデ/エル・マンデ/ティガ・ラ・パパ/ノ・ティンゴディセ/ティガ・ラ・パパ/ア・タンゴアイエ/ア・タンゴアイエ/ア・タンゴアイエ」
ルイジアナ州のクレオールの伝説、口碑、歌を収集するという、成功するとはとても思えないが、熱意を感じるプロジェクトを始めました。残念ながら、私はお金―たくさんのお金―なしには、これを徹底的に行うことはできないでしょう。しかし、いいところまでは出来ると思っています。〉(村井訳)
これはラフカディオ・ハーン(1850~1904)が、1878年に友人の音楽批評家、H・E・クレービエルに出した手紙の一部です。アイルランド人の父とギリシャ人の母の間にギリシャで生まれアイルランドで育ったハーンは、19歳のときにアメリカに渡り、シンシナティで新聞記者として過ごしたのち、1877年にニューオリンズにやってきました。
複雑な生い立ちを持ち、自分のアイデンティティが不安定なものだ、という自覚を持っていただろうハーンは、ニューオリンズからカリブ海のマルティニークに渡って2年間滞在し、1890年にアメリカを離れて日本へと旅立ちます。結果的に終の棲家になった日本で、ハーンは『怪談』を始めとする本を書き、日本人と結婚して「小泉八雲」になったわけです。「ディアスポラ(離散者)」として世界を経巡ったハーンは、常に外からの観察者として滞在地でのさまざまな出来事や文化、風俗を凝視し続けていたように思えます。最後にたどり着いた「日本」が、彼がやっと出会った安住の地だったのかもしれませんが……。
ハーンはニューオリンズの文化、特にクレオール(フランスあるいはスペイン系とアフリカ系の混血)の風俗や音楽に興味を示し、新聞や雑誌に数多くの文章を書くのみならず、クレービエル宛の手紙にクレオールの音楽についての報告や感想を熱心に書き綴りました。
ニューオリンズは、1718年にフランス人が建設した町です。1763年、英、仏、スペインの間でパリ条約が結ばれ、一時、フランス領からスペイン領になりました。このパリ条約は欧州での七年戦争、北米でのフレンチ・インディアン戦争など複合するヨーロッパ諸国の覇権争いにケリをつけたもので、これによってイギリスはインドと北米大陸のイニシアティヴを確立しました。
さらに1801年、ナポレオンが再びフランス領に戻しましたが、最終的には1803年に「ルイジアナ」というカナダ国境からニューオリンズまでを含む広大な地域をアメリカに売却します。これによってニューオリンズははじめてアメリカ合衆国の一部になりました。
ですので、ニューオリンズには元々フランス系の人がたくさん住んでいました。また、アフリカから連れてこられた人たちとその子孫たちもたくさんいましたし、さらにはアフリカン・アメリカンとフランス系、スペイン系を主とする白人との混血の、「クレオール」と呼ばれた人たちも住んでいました。
