和は年ごろとなって、親同士の決めたかつての家老仲間、渡辺家の息と結婚し、一男一女をもうけるが、次第に夫への不信が高まり、深く傷ついて長女しん、長男六郎の二児を連れて実家に帰ってしまう。(中略)しかし世は正に鹿鳴館時代、元来、社交的な彼女は、直ちに英語習得の必要を思いたち、正美英学塾に通い始めた。
(大関和『実地看護法 覆刻版』医学書院、1974年)
妾の子が複数いたので「六郎」…逃げるように上京か
この離婚の経緯だが、そもそも結婚相手の渡辺福之進という男は、藩政改革の時に藩兵として出世、戊辰戦争では藩の小隊長にもなっている。廃藩置県の後には陸軍少尉にまで出世した後に病を理由に退職して戻ってきた人物で、既に40歳近い男であった。
大関を研究した亀山美知子によれば、和は、この結婚を拒み、思いあまった末に頭髪を全部剃って、馬を疾走させたと記している。
そんなに結婚を拒まれても動じない、渡辺というのもたいした大人物である。ともあれ、結婚した二人の間に生まれた息子に、渡辺は六郎と名付けた。というのも、渡辺には既に数人の妾がいて、それぞれに子供がいたからである。
衝撃を受けながらも、当時の価値観で「離婚は恥」といわれてぐっとこらえた和であったが「こんな結婚などするか」とばかりに、坊主になって馬で疾走するパフォーマンスをするような女性である。いつまでも、貞淑なフリをして我慢をしているはずなどない。
1880年、長女のしんの出産を理由に実家に帰ると、産後の経過が思わしくないと帰るのを遅らせた。とはいえ、このまま離婚となれば狭い田舎で後ろ指を指されるのは必然である。
逃げるようにしてでも、東京に出るのは最良の道であった。なにしろ、既に零落したとはいえ大関家は藩主にも連なる高位の一族である。亀山も華族となり、東京に住むことが決められている旧藩知事の大関増勤(最後の藩主で子爵となる)などを訪ねたのではないかと記している(亀山美知子『大風のように生きて:日本最初の看護婦大関和物語』ドメス出版、1992年)。
