さて、上京した和が英語塾に通うに至った経緯は、史料にはこう記されている。

其頃大書記官鄭永寧氏息永慶氏の厚意によりてイイストラ女史に紹介せられ、常に通訳を通して会話したりしが、彼女は之に不便を感じて英語修行の志を起し……

上流階級の交際だった

鄭永寧は、もともと明朝から亡命した鄭成功の子孫で長崎奉行のもとで通訳をしていた一族である。維新の後は、明治政府に出仕して通訳官となっていた。

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その息子の永慶は、幼い頃から語学の天才と呼ばれ、エール大学に留学し金子堅太郎などと共に机を並べた人物である。しかし、留学中に病を得て帰国、その後も外務省に出仕したが学位がなくては出世も頭打ちだと、心機一転。はじめたのが、日本最初の喫茶店として記録される可否茶館であった。

つまりそもそもが、上流階級の交際である。

鄭永慶はエール大学帰りで日本最初の喫茶店を開いた男だが、それはまだわかる。問題は彼が紹介した「イイストラ女史」の正体だ。この人は、横浜で歯科を開業し「近代歯科の父」と呼ばれたイーストレイクの妻である。このイーストレイク家、息子のフランクの自宅で行われていた聖書を研究する集会は、植村を迎えて教会としての組織を整え、現在も千代田区に存在する富士見町教会へと発展していく(東北学院百年史編集委員会 編『東北学院百年史』東北学院、1989年)。

……和の周囲に、庶民が一人もいない。ちなみに重ねていうが、この時期のもう一人のモチーフである雅の動向はほとんどわからない。

鹿鳴館や捨松との接点は不明、朝ドラは“創作”

なお、ドラマは鹿鳴館を推しているが、鄭永慶が可否茶館を開業した理由は、鹿鳴館への反逆である。

永慶氏は「よしッ! 俺は、あんな表面だけの欧化主義で馬鹿騒ぎしている社交場なぞを尻目にするような、大衆庶民や学生のための『社交サロン』である知識の共通の広場になるような新しい『喫茶店』を開店して、世の若い世代の者たちのために、一旗あげてみよう!」と決意したのである。
(寺下辰夫『珈琲ものがたり(味のシリーズ 1)』ドリーム出版、1967年)