第91回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞に輝いた『フリーソロ』(ディズニープラス他で配信中)は前人未到の偉業の瞬間を捉えた傑作だ。ロープや命綱を一切使わずに己の身一つで断崖絶壁をよじ登る狂気のフリークライミング、「フリーソロ」。この異端のスタイルに挑む者は全クライマーの1%に満たない。落下は即、死に直結する。考えるだけでも恐ろしい。

 米・カリフォルニア州のヨセミテ国立公園に聳える巨大な一枚岩「エル・キャピタン」をご存じだろうか。アップル社製のMacPCをお使いの人ならOSの壁紙で見たことがあるかもしれない。谷底から垂直に切り立つ花崗岩の高さは、東京タワー3塔分に匹敵する900m以上。そんな通常のクライミングでも登攀困難な巨大な岩壁に命綱なしで挑もうとする若者がいた。

「マジ怖いから絶対やりたくない。でも、やりたい」

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 笑顔でそう語るのはフリーソロ界のスター、アレックス・オノルド(2016年撮影当時、30歳)。父の死をきっかけに名門カリフォルニア大学バークレー校を19歳で退学。10年近くバン暮らしを続けながら定住せずにプロクライマーとして各地を転々と放浪してきた。生活も質素で、どこか浮世離れした無垢な少年のような人だ。彼が一世一代の挑戦として目標に掲げるのがエル・キャピタンをフリーソロで登り切ること。もちろん達成した者はいない。7年越しの悲願と語るが、なぜこんな挑戦を? 実力を見せつけたいのか、はたまた命知らずの挑戦で名声を得て経済的な成功を目論んでいるのか。もし、そんな理由ならあまりに代償が大きい。

「フリーソロに命を懸ける者は皆、死んでるよな……」

 実際、実力者も悉(ことごと)くフリーソロで命を落としてきた。

「フリーソロは極めて個人的な活動で口外しないもの。僕はいつも誰にも言わない。プレッシャーになるから」

 フリーソロでは恋人や仲間の存在すらも足かせになるという。絆や愛情が雑念や恐怖を呼び起こし、集中力を妨げてしまうのだ。金のためでも名誉のためでも、大切な人のためでもない。ならば、何が彼を危険な挑戦へと駆り立てるのか。

 ある日、彼の脳をMRIで解析してみると興味深い結果が……。扁桃体に通常見られるはずの活性化が全く見られなかったのだ。専門家は結果をこう分析する。

「強い刺激にしか反応しない。普通の人が反応するレベルでは、あなた(アレックス)の脳は刺激を受けない」

 確かに彼は普段、感情的になることがほとんど無いという。そんな彼が刺激を求め、死と隣り合わせのフリーソロに魅了されたのは必然だったのかもしれない。

 劇中ではもう一つ、彼の内なる動機にも迫っている。

©佐々木健一

「どんなに頑張っても(母は)評価してくれなかった。底知れぬ“自己嫌悪”がフリーソロをやるバネに」

 命を懸けた究極の挑戦は、孤独な自分自身との闘いに。撮影隊も遠くから離れて見守る。彼は夜明け前に一人、壁へ向かい、望遠レンズと遠隔操作の無人カメラがその姿を追う。登攀シーンは息をするのも忘れるほどスリリングだ。そしてラスト、美しくも恐ろしい断崖絶壁のドローン映像に得も言われぬ戦慄と感動をおぼえる。