──女性は(チェスが)下手? 「女性はひどいね。あまり賢くないんだろう」
これは東西冷戦期にソ連選手を下しチェスの世界王者となった天才ボビー・フィッシャーの言葉。とんでもない発言だが当時チェス界は男性中心で、女性は男性の大会に出場できなかった。その分厚い“ガラスの天井”を突き破った女性を描いたドキュメンタリーが『クイーン・オブ・チェス』(ネットフリックスで配信中)。
後に“チェス界の女王”となるユディット・ポルガーは1976年にハンガリーで生まれる。70年代、国の経済は崩壊し、自殺率も欧州一。そこで3人の娘を抱える父親のラースローは「娘たちにいい人生を送らせたい」と思い、世界の偉人伝を400冊以上読み漁って傾向を分析。その結果、「適切な教育で天才は作れる」という考えに至り、娘たちにチェスの英才教育を施した。なぜチェスか。理由はチェス盤が安価で入手しやすかったからだ。かくして娘たちは毎日8〜9時間チェス漬けの生活を送り、自宅学習で学校にも通わなかった。この取り組みを父は“実験”と呼んだ。目論見通り、3人の娘は国内で圧倒的な強さを誇り、末娘のユディットは12歳で無双状態に。だが、「10で神童、15で才子、20過ぎれば只の人」という諺もある。果たしてこんな育ち方をして幸せな人生を送れるのか。
だが、彼女の才気は衰えず男性トップ選手を次々と打ち負かし、ボビー・フィッシャーの記録を抜く史上最年少(15歳4ヶ月)でチェス界の最高位グランドマスターの称号を得る。男社会の最後の砦は当時、世界最強のガルリ・カスパロフを残すのみ。94年、2人の対戦が実現。チェス界の絶対王者に17歳の少女が挑んだ。彼は幼い頃から彼女の憧れの存在だった。
しかし、事件が起きる。36手目、カスパロフが痛恨の悪手を指し一瞬駒から手を離した後、違う手を指し直したのだ。手を離した時点で指し手が確定するルール(タッチ・ムーブ)に反する行為。目の前で王者がズルをしたが、その瞬間は彼女しか見ていない。証拠もない……かと思われたが、地元テレビ局の無人カメラが不正の瞬間を捉えていた。チェス界を揺るがす大スキャンダルに発展し、憧れの存在は因縁の宿敵と化し、2人は犬猿の仲となる。
だが8年後、カスパロフは彼女の強さを認め、チェス合宿に誘った。彼女も、
「人間的な一面が見えた」
と語り、王者の人となりに触れて2人の関係は共にチェスを学ぶ同志へと変わる。私生活でも23歳で運命の人と出会い、結婚。父のもとを離れた。傍から見れば、幼少期は毒親の実験台にされたように見えるが、
「父が教えたのはチェスだけじゃない。私でも偉大になれると思わせてくれた」
と清々しく語る。2014年の引退まで26年間、世界のトップにいたユディット。チェス雑誌の編集長は彼女の凄さをこう述べる。
「父の望みを全て実現させながら、好感の持てる普通の人であるのは奇跡的だ」
本作で印象的なのはインタビューに答える彼女の姿。自然体でとても幸せそうなのだ。驚異的な知性の持ち主=天才でありながら至って普通。それこそが彼女の偉業なのかもしれない。
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『クイーン・オブ・チェス』
https://www.netflix.com/jp/title/81749912




