自分を反革命分子として告発・粛清するための証拠書類が、権力者の手によって次々と燃やされていく。その光景を見て、当時の被害者たちは「ああ、よかった」と安堵し、喜んだ。そして10年後、彼らは絶望することになる。(全2回の2回目/はじめから読む

【文化大革命から60年「人民による食人・暴力・飢餓の全貌」】日本人も関わった文化のプロパガンダ|民族ジェノサイドの記憶|証拠を焼却…資料集めの難しさ|飢餓ではなく「恨むからこそ人を食べる」【楊海英】

(初出:「文藝春秋PLUS」2026年4月12日)

「粛清の資料はすぐに焼却しろ」

 歴史の隠蔽といえば、権力者が力ずくで証拠を奪い、被害者の記録を一方的に抹消する強権的なイメージが浮かぶだろう。しかし、文化大革命(1966~1976年)で行われた隠蔽工作は、そのような単純な構図ではなかった。静岡大学教授・楊海英氏が明かしたこの残酷な皮肉の構造を、一枚の公文書が証明している。

ADVERTISEMENT

 文藝春秋PLUSの動画番組「+HISTORY」に出演した楊氏が持参した公文書は、中国共産党中央委員会が1966年11月16日に出した規定だ。文革が発動されてからわずか半年のタイミングで、党中央はこう命じていた。

公文書を手に説明する楊海英氏

「文革に関する資料、例えば誰かを粛清するとか、誰かを逮捕してリンチするとか、そういう資料は学生や労働者に見せたら、すぐに焼却しろ」

被害者はなぜ喜んで受け入れたのか?

 楊氏はこの公文書の重要性を説く。中国は書かれた資料を残さないことにかけては非常に長けており、文革中にも終了後にも組織的に書類が破棄・焼却された。

 ここに、この隠蔽工作の最も残酷な仕掛けがある。焼却命令を当時の被害者はどう受け取ったか。

「あなたを粛清するための資料は残さないと言ったら、本人が『ああ、よかった。私の罪状は後世に残らない』となったわけです」

 告発書類が焼かれることを、被害者はメンツが守られることからむしろ安堵し、喜んだ。記録が消えることが、自分への「解放」に見えた。毛沢東が仕掛けた巧妙な罠は、被害者を自発的に証拠隠滅へと加担させたのだ。