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10年後に突きつけられた冷酷な言葉
しかし、文革が終わって10年が経ち、時代が変わると、被害者たちは名誉回復と賠償を求めて声を上げ始めた。そのとき突きつけられた言葉は冷酷だった。
「証拠がありません」
焼却したのだから、当然ない。被害を受けた事実を証明する術は、皮肉にも被害者自身の手によって失われていたのである。
組織的な隠蔽の網をかいくぐって一次資料を集めるため、世界の研究者たちが選んだ手法は、文字通りの「ゴミ収集」だった。文革が終わって捨てられ、古本屋や廃品回収所に回った資料を業者に打診し、買い取ってきた。楊氏が今回スタジオに持参した「赤いヘッドで始まる」中国共産党中央の極秘公文書も、偶然ゴミとして残った貴重なピースだ。
1966年の「焼却命令」から約60年が経った今も、中国では文革の研究はタブー視され、証拠へのアクセスは厳しく制限されている。では、そのような徹底した隠蔽のなかで、楊氏の故郷・内モンゴルではいったい何が起きていたのか? 楊氏自身が「ジェノサイド」と断言する想像を絶する弾圧の実態と、知識人を一網打尽にした毛沢東の狡猾な陽謀については、動画のなかでさらに詳しく語られている。
【文化大革命から60年「人民による食人・暴力・飢餓の全貌」】日本人も関わった文化のプロパガンダ|民族ジェノサイドの記憶|証拠を焼却…資料集めの難しさ|飢餓ではなく「恨むからこそ人を食べる」【楊海英】
