「誰も歌い手と名乗らなくなっても、私は……」Adoが成田悠輔に語った覚悟とは?〈AIが歌う時代のアーティスト論〉
誰も歌い手と名乗らなくなっても……
Ado そうですね。本当にそれに近いです。イラストに命が吹き込まれているわけではないので。とはいえ表に肉体が見えているというわけでもない。そうなると、歌い手という存在は、中途半端と言われてしまうところに立ちやすいなとは、私も課題として日々考えています。
ただ、だからこそ私は、そういうふうに見られているとしても「これが歌い手です」というかたちを、これからたとえ私一人になったとしても取っていきたいと思っています。誰かが忘れても、先人の皆さんが歌い手と名乗らなくなっても、私は歌い手と名乗り続けたいです。私が1人で歌い手を作ったわけでもないので、歌い手が将来どうなっているかは言えませんが、こういう人間がいて、こういうものとして私は活動しているということは、歴史と言ったら大袈裟ですが、時代に残していきたいと思っております。
これからの時代のアーティストがどうなっていくか、アーティストと言われる表現者がどうなっていくか。二極化はまたさらに激しくなるかなと。バーチャルやAIの技術が進んでいくと、じゃあ本当に本格的なバーチャルアーティストが出てくるのか、私もよく考えていて。
今も、VTuberさんが画面越しにライブをしたり、実際の会場でライブをしたりしていますが、もしバーチャルリアリティがもっと深くなって、どんどん広がっていったら、本当に同じ空間に、目の前にバーチャルなアーティストさんがいる、という形もあり得るのかなと思います。
そうなると、今のアーティストと言われる人間の――というか、一般的な歌手と言われる人たちとかなり近い形を取る存在も出てくるのではないかと思いますし。完全にすべてAIでできた人というか、AIそのものが活動することも、現にもう出てきていますし。そういう存在が、もっと公に活動する時代も遠くはないのかなと思います。
でも、反対に、やっぱり人間は人間というものをどうしても好きになってしまうというか、本能としてそれを求めていくものだと思います。実際、バーチャルアーティストと言われる人たちも、結局は人体というか、四肢があって、頭があって、という人間に近い形を取っていますよね。二次元のイラストだとしても。
だからこそ、バーチャルの存在が広がっていく一方で、より人間らしいアーティストを求める客層、消費者も、むしろ増えていくのではないかと思います。
成田 人肌っぽい方向性と人工っぽい方向性の2つに分裂していくんじゃないかということですよね。
Ado そうですね。私はそう考えています。
※約8500字の全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」と「文藝春秋」2026年3月号に掲載されています(Ado×成田悠輔「『天然水みたいな声だったら、すぐにAIに…』Adoが“不完全な声”に心地よさを感じる理由」)。全文では、以下の内容が語られています。
・「ちょっと夢見すぎなんじゃない?」
・「AI Ado」が、Mrs. GREEN APPLEさんの楽曲を…


