泥にまみれることが悪いことだとは思わない
成田 自分の中の粗とか泥を垂れ流すのって恥ずかしく感じる人が多いと思うんです。それをあえて浄化せず、そのまま表現しつづけられたのってなぜなんでしょう。
Ado 秘訣というと難しいですが、きれいに生きようとしても、どうしても私にとっては、自分の姿が汚く見えますし、実際に汚いなと思う瞬間があって。自分の声にも声以外にもコンプレックスがありまして、それも含めて自分として生まれてきてしまったからには、そこだけ直すわけにもいかない。すごく強い言葉で言ってしまうと、「死なない限り直せないんだ」、「私じゃなくなりたいんだったら死ぬしかない」みたいに考えてしまったこともあります。なんで私は私として生きているのだろうって。
だから、きれいなところへ行こうとしても、結局私ってこういう散らかった汚いいびつなままだから、「じゃあ、私はそれでもいいさ。私はもう泥まみれでもそのまま行ってみせる。だってそんな人いないから」と思った瞬間がありました。
当時10代の感覚ですが、ちょっとゆがんでいたところもあったので、「みんなはきれいにしようとしても、私は雨でグチャグチャに泥まみれになっていても、容姿とか関係なしにそのままはいつくばってでも上に上がってやる」みたいな気持ち。だからこそ、この場所だけは絶対に譲らない、みんなが汚いことを否定して、泥まみれになる人間、泥臭い人間を否定するのだったら私がそれを体現して、「そういう人間だっていい」と伝えてやる、って。
だって、泥にまみれることが私は人間として悪いことだとは思わないから。自分には選択肢がなかったからこそ、それを大事にしようと思えたことが、ある種秘訣かなと振り返ってみて思います。
※約4500字の全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(Ado×成田悠輔「令和の歌姫Adoが自分のコンプレックスを乗り越えるまで」)。全文では、以下の内容が語られています。
・人気度合いの適温って?
・告白小説として昇華しようと思った理由

