1946年5月10日、長野県下伊那郡市田村大島山の一軒家で、母子を含む7人が就寝中に斧で撲殺されるという凄惨な事件が起きた。
被害者は夫を亡くしたばかりの後沢貞(当時38歳)と4人の子供たち、さらに同居していた妹とその娘。全員が頭部を1、2回殴られて即死していた。
食糧難で捜査は縮小
現場に残されていた凶器は「ヨキ」と呼ばれる薪割り用の斧。この斧には「市」の刻印があり、1930年(昭和5年)に製造された10丁のうちの1丁と判明した。
警察は製糸組合の従業員や出入り業者など293人を徹底的に洗い出したが、保管責任者が満州に渡ったまま消息不明となっており、斧の行方を追う捜査は難航した。
一方、現場から盗まれた玄米4俵は約300メートル離れたサツマイモ貯蔵用の洞穴に隠されているのが発見された。米俵にはわずかながら血痕も付着していた。警察は犯人が必ず取りに戻ると読んで張り込みを続けたが、犯人が姿を見せることはなかった。
捜査を困難にしたのは状況だけではない。事件当時は極度の食糧難で、捜査員たちは「草も食べていたような状態」(1961年発行の『信濃毎日新聞』)であり、大半が体重を5〜10キロ減らしていたという。
延べ8千人の捜査員を投入しながらも、事件発生からわずか3ヶ月で捜査体制の縮小を余儀なくされた。
警察は足跡や犯行の手口から、犯人は現場に土地勘のある地元住民の単独犯と推定。被害者一家と同じ集落に住む生活苦の男性が浮上したが、決定的な証拠は得られなかった。
集落には疑心暗鬼が広がり、互いに犯人呼ばわりし合う事態となり、最初に「あいつが犯人だ」と言いふらした住民は後に自殺したという。
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犯人はどこへ消えたのか⋯? 【事件の詳細】は以下のリンクからお読みいただけます。
