俳優・映画監督のチャールズ・チャップリンがアドルフ・ヒトラーを風刺して作ったコメディ映画『独裁者』(1940)。今回の作品は、この映画に登場するチャップリン演じる独裁者ヒンケルに、美術家の森村泰昌(1951―)が扮したセルフポートレートです。実在の人物のパロディをさらに演じるという入れ子構造であること、そして森村が加えた細かなアレンジによって、一つの解釈に回収されない重層的な解釈・議論へと開かれた作品になっています。
森村は西洋の歴史的名画(エドゥアール・マネ作『オランピア』など)の、特に女性になりきった自画像的写真作品で有名になりました。森村作品はいずれも自身の身体を用いて元の作品を精巧に模しています。だからこそ、作中での個としての森村自身の存在をどう捉えるのかという点と、元になる作品との差異において、様々な意味が生まれる仕掛けになっています。
この作品は『なにものかへのレクイエム』と題した20世紀の男たちをテーマにしたシリーズのうちの一つ。他の作品が概ね歴史上の人物を直接参照しているのに対し、本作ではチャップリンの表現というクッションを置いているのが特徴です。ヒトラーを直接コピーすることの倫理的な危うさを回避する意味もあるでしょうが、ヒトラーが独裁者の記号的イメージになっていることを表していると読むことができます。
では、チャップリン演じるヒンケルとの差異がどこにあるのか確認してみましょう。まずは帽子についたマークがチャップリンでは×が二つ連なっているのに対し、森村では「笑」に。また、森村作では手前にマイクがずらりと並び、そのいくつかが男性器を模したオブジェや爆弾のような形状のものになっていて、さらに背景の人物はいろいろな動物の頭にすり替わっています。このような差異は、独裁者を笑え、というメッセージとともに権力の戯画化を強めているように見えますが、同時に、マイクに象徴されるメディアが持つ権力や権力者の背後の人物たちにも注意を促しているとも受け取れます。
森村はテーマを個としての自分に引き寄せて考えることを大事にする作家でもあります。本作に添えられた「……独裁者はどこにいるのかと捜します。捜しているうちに、目の前の鏡に映っている私自身の姿を見つけます。」という言葉(チャップリン映画内の演説を換骨奪胎したもの)はセルフポートレートだからこそ確固としたものになります。さらに森村は鑑賞者にも内省を促すのですが、それは背景の動物たちのように独裁者の話をぼんやり聞いていないか、と尋ねているかのようです。「私は独裁者にはなりたくありません。」と締めくくる森村の言葉が多くの人に響くことを祈ります。
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「TOPコレクション Donʼt think.Feel.」
東京都写真美術館にて6月21日まで
https://topmuseum.jp/exhibition/5415/



