「あの戦争」という言葉を聞いて日本人が思い浮かべるのは、日中戦争や太平洋戦争だろう。だが、それより三百五十年ほど前、隣国を二度にわたって侵略した戦争があった。日本では文禄・慶長の役、韓国では壬辰(イムジン)・丁酉倭乱(チョンユウェラン)と呼ばれる戦争にほかならない。
本書は、徳川家康の嫡男である三郎信康の小姓衆となった沢瀬甚五郎を主人公としている。甚五郎は三郎信康の自刃を機に出奔して商人となり、薩摩の山川や博多、ルソン島のマニラ、長崎などを舞台に活躍するものの、この戦争に巻き込まれて運命が反転し、敵の捕虜となって朝鮮軍を指導する立場となる。そして最後には、朝鮮から派遣され、将軍職を譲った家康に謁見した使節の一員となる。結末で最初の主題へと戻ってくる飯嶋和一ならではのシンフォニックな構成は、ここでも健在だ。
もっとも本書では、日本軍と朝鮮軍や中国(明)軍とのいつ終わるとも知れぬ凄惨な戦闘の場面にかなりの紙幅が割かれている。戦闘の舞台は、現在の韓国と北朝鮮を合わせた朝鮮半島全体に及び、視点も日本側と朝鮮側の双方にまたがっている。この点では小説というよりも、実際に起こった戦争を忠実に描く戦記の趣きがある。
その緻密な文章が図らずもあぶり出すのは、「あの戦争」との驚くほどの類似性である。朝鮮や中国ばかりか、東南アジアにまで版図を広げようとする豊臣秀吉の野心は後の「大東亜共栄圏」を彷彿とさせるし、敵を侮って破竹の勢いで進撃するものの、しだいに泥沼化してゆく様相は日中戦争を想起させる。結局、日本人は過去の戦争から何も学んでいなかったという厳然たる事実が、読後に重くのしかかってくる。
他方で「あの戦争」との違いもまた明らかになる。本書で描かれた時代は、明治以降と違い、「国民国家」という観念が確立していなかった。だからこそ甚五郎のように、朝鮮軍の一員として日本軍と戦う「降倭」と呼ばれる日本人が少なくなかったのだ。いまならば「非国民」として罵られること必定だろう。
しかし著者は、甚五郎が遺志を継ぐことになる磯貝小左衛門に「わしらは、降倭などではない。日本人でもない。わしらは観世音菩薩の化身なのだ」と語らせている。あらゆる場所に姿を現し、苦しむ衆生を救う観世音菩薩。その信仰をともにする人々が、国家や民族の違いを越えて一つになり、侵略に抵抗する。こうした小説が書かれること自体、東アジアの国境を超えた新しい文学の出現を見るような思いがした。
いいじまかずいち/1952年山形県生まれ。83年『プロミスト・ランド』で小説現代新人賞、88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2000年『始祖鳥記』で中山義秀文学賞、08年『出星前夜』で大佛次郎賞、16年『狗賓童子の島』で司馬遼太郎賞。他『雷電本紀』等。
はらたけし/1962年東京都生まれ。放送大学教授。専攻は日本政治思想史。『大正天皇』『昭和天皇』『皇后考』など著書多数。