『今度は異性愛』(松浦理英子 著)

 自分が独身である理由はよく知ってるけど、他人が独身である理由は何回聞いてもよくわからない。けれども本書の語り手である宮内祐子(定年した63歳で、ウェブでBL小説を書いたりしていた)が一人でいる理由は、そういうわたしにも伝わってくるものはあった。そこに相対的な「孤独」を混ぜてくる悲痛さはない。他人といることだけが人間の喜びかというとそうでもなくて、一人で考えていることにも喜びや奥行きはある、という、普遍的だけれどもあまり語られてこなかったことが、本書では力説でも諦念でもなく、おもろい女の人とお茶を飲みながら話しているような心地で描かれている。

 休み時間にみんなと描ける絵と違って小説は個人的だという流れで、「何よりも書くこと自体が性癖であって人には言いづらいことだと感じていた」という記述があって強く共感した。小説は、最悪でも字を知っていたら書けるのでコストがかからなすぎることも、人と対面して書くことができないのも恥ずかしい。それは宮内が一人でいることと無縁ではない。自分もそうかもしれない。

 宮内は、『大脱走』の登場人物同士の関係や、なぜSMは同性同士のほうがいいと思うかということや、花の中で2匹並んで眠るミツバチについてはいろいろ考えるのに、「自分自身」にはあまり関心がないように見える。それと対比するように、宮内が読書会で出会うカイリとサクという若者、場を仕切っているヒヌマという人物がいる。彼らと宮内のやりとりは非常にスリリングだ。

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 ヒヌマは「人物を性的な属性だけで見ていて、固有の人間性を見てない」と言われる堅苦しい人間で、ヒヌマがかわいがっているサクとカイリはなんらかのマイノリティであり、「面白いと思った小説なんてほとんどありません。決まりきった人間しか書かれていなくて、私みたいな人間は全然出て来ない」と主張する。わたしには彼らが、「自分」の延長上か否かでしか人間をとらえようとしない人々の象徴であるように思えた。

 この後宮内は、人と違うことに誇りを持てという言説に、「だいいち誇りを持ったって万事解決するわけではありません」と小説の中で旅の女性に発言させる。女性が一生売春をし、男が村の仕事をする売春の村についてガイドが嘆く場面でのことだ。その後、ホテルでの現地の人々の婚礼とすれ違う様子が描かれる。「やかましい音楽を奏でながら遠ざかって」行く他人の人生を描くこの場面には強い救済がある。

 違っていていい、という綺麗事以前に、すでに人は他人と生きている。一人でいるかそれ以外か、という大問題は、実は一人と他人の間を行き来する頻度の多寡の話でしかないのではないか、と思った。思索を繰り返した先で、そんな結論をぽいっと投げてくれるような軽やかさに感謝した。

まつうらりえこ/1958年、愛媛県生まれ。78年「葬儀の日」で文學界新人賞を受賞しデビュー。94年『親指Pの修業時代』で女流文学賞、2008年『犬身』で読売文学賞、17年『最愛の子ども』で泉鏡花文学賞、22年『ヒカリ文集』で野間文芸賞を受賞。

つむらきくこ/1978年、大阪市生まれ。2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞。2023年『水車小屋のネネ』で谷崎潤一郎賞受賞。

今度は異性愛

松浦 理英子

新潮社

2026年3月25日 発売