1953年(昭和28年)12月12日、青森県中津軽郡新和村(現・弘前市)でリンゴ園を営む一家7人が皆殺しに遭った。犯行に及んだのは一家の三男。
地元紙『陸奥新報』により「青森県史上最も凶悪な殺人事件」と報じられたこの事件の背後には、津軽地方に根を張る封建的な因習と、極限まで追い詰められた一人の人間の姿があった。
実家を追い出された三男
犯人は1929年(昭和4年)、8人兄弟の三男として岩木山の裾野にある集落に生まれた。父親は1.3ヘクタールのリンゴ園と0.7ヘクタールの水田を所有する村の顔役だったが、根っからの吝嗇家で酒癖が悪く、外に愛人を持つなど家庭不和の絶えない人物だった。
新民法で「家族平等の原則」が導入された後も、集落では家の財産をすべて長男が継ぐ封建的な慣習が残っていた。財産を独占した長兄は次男・三男を忌み嫌い、事件前年の1952年7月ごろ、三男は父と長兄から布団・鍋・米一斗をもらい受けただけで実家を追い出された。
その後は集落の端の民家に間借りし、桶屋として細々と暮らしたが、生活は日々の食べ物にも困る極貧だった。同年10月に間借りも断られると、親戚宅の物置小屋の庇を借りて雨露を凌ぐ生活が始まる。強風や吹雪の夜には耐えられないほどの寒さが襲い、炊事もままならなかった。父親や長兄夫婦が援助の手を差し伸べることはなく、三男の憤りは日に日に募っていった。
そして事件当日の午前1時ごろ、三男は味噌を盗もうと実家の物置小屋に忍び込んだ。そこで猟銃と実弾を発見すると、盗みが露見すれば父や長兄に撃ち殺されるかもしれないという恐怖が、瞬く間に殺意へと変わる。彼は猟銃に実弾を装填し、実家へと押し入った。
まず就寝中の父親の頭部を撃ち抜くと、次に長兄の長男(7歳)を射殺。別の部屋で寝ていた長兄(35歳)と妻(33歳)、長女(5歳)の布団に銃口を差し入れ、至近距離から引き金を引いた。最後に、伯母(61歳)と、唯一自分に優しかった祖母(80歳)を撃ち殺した。祖母の遺体は特に損傷が激しく、頭部と顔面が粉砕されていたという。犯行後、頭部から血を流した三男が興奮した様子で近隣住民にこう叫んでいた。
「いま、おやじを殺してきた」
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