知識量が少なくてもアウトプットはできる。愚かさを身につけよ

 知識量が少なくても現在のわたしは、かなり多産な部類に入る書き手だと思います。アカデミックな論文も、一般向けの連載・書籍も、かなりの量をコンスタントに書いている。院生時代の遅筆なわたしがこれを見たら、さぞ驚くことでしょう。

 ところで先述したように、わたしはいまでも知識量は少ないです。にもかかわらず、なぜ安定して大量のアウトプットができるのか。

 それは、わたしには「エイッ」と書いてしまえる、ある種の愚かさがあるからです。これもやはり、謙遜でも自虐でもありません。わたしはこれを、自分の強みだと思っているのです。

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 研究者というのは、ある対象について書こうとするとき、たくさんの留保や反論が脳裏をよぎる生き物です。「この主張では、あの反例にやられる」「この結論は、あの議論を踏まえると素朴すぎる」「こんなエビデンスじゃ、論証したことにならない」――文章を、いや、一文を書こうとするごとに、こうした大量の抵抗が立ちはだかる。

 もちろん、わたしの頭にもこうした留保は湧きます。でも、知識量で出遅れていたわたしは、ここのハードルを下げることを選んだ。言いたいことが決まったら、ともかく手を動かしてしまう。あとから失敗に気づくことも多々ありますが、「まあ、次もっと良いの書けばいっか」ぐらいで忘れてしまう。そうして、ともかくアウトプットを実行してゆくわけです。

 こうした「愚かさ」を、真面目で優秀な研究者はもちろん唾棄すべき態度だと考えるでしょうし、多くの学習者たちも、克服すべき欠点だと考えるでしょう。きちんと調べ尽くして、手落ちのないように書くことこそが、アウトプットに求められる倫理だと素朴に信じられている。

 もちろん、それはそれで正しい。けれども、ここに本稿で言いたいことの核心があります。それは、本稿で述べてきたようなタイプの「真面目」なインプットは、しばしばアウトプットからの逃避先になる、ということです。

「ちゃんとぜんぶ調べてから書こう」、「もう少し勉強してからにしよう」――こうしたインプットの要求は、どうみても倫理的な姿勢です。しかしそれは、書くという本来の仕事を、おおっぴらに先延ばしするための口実にもなりうる。

 これは、アウトプットしないことの正当な言い訳になってしまうことだけが問題なのではありません。おそらく本連載の読者にもひろく重要なこととして、アウトプットが苦手なひとこそ、さっさとアウトプットすることによってアウトプットの練習を積まなくてはならないのに、その練習にすら入れないということです。

 執筆でも、あるいはほかの形態のアウトプットでも、なんでもそうですが、アウトプットがうまくなるにはアウトプットの練習をするしかありません。もちろん理論を学んだり、インプットで準備したりすることも役立つわけですが、ともかく実地のアウトプットもやっていかないと身につきません。あたりまえのことです。わたしはそこで愚かさを味方につけ、いつしか、ほとんどの研究者よりもアウトプットがうまくなっていました。

 ちゃんと準備して、ちゃんとしたものを書こう――その気持ちは、もちろん大事です。しかし、その賢明さに見えるものは、じつは本来の目的であるアウトプットを回避するという、もっとも愚劣な行為を正当化するためのカモフラージュにすぎないかもしれない。その罠に陥るまえに、ある種の健全な愚かさを許容してしまい、思い切ってアウトプットを開始してみることで、道がひらけてくる。

 今回はそういうお話でした。

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