曲をかけるのも含めて、たった20分のコーナーだった。そのなかで、みんながうっすらと感じていたアラサー論の言語化、話術のエンタメ性、生放送で時間内にそれを出せる瞬発力。パーソナリティの素養がすべて詰まっていた。

「ラジオ界、100年に1人の逸材があのスタジオにいる」

 聴いたときの感情はこうだった。

「ラジオ界、100年に1人の逸材があのスタジオにいる」

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写真はイメージ ©AFLO

 気づいたら私は作業していた会議室を飛び出し、スタジオのあるフロアに降りて全力で走っていた。

 軽く息切れしながらオンエア直後のスタジオを訪ね、スーさん、そして番組スタッフも交えて「いかにすごいトークだったか」など談笑した。

 後日スーさんから「橋本さんがあのとき走って降りてこなかったら、いまこんな人生じゃなかったよ」と冗談交じりに言われた。確かに走る必要はなかったかもしれない。

 これが、2011年5月22日に起きた、「新時代のラジオスター誕生」の瞬間だ。当然、この段階ではまだ誰も知らない喋り手だった。この人はラジオの世界にいるべき人材だと確信した。

 どうにか番組を作りたい。すぐにやらなきゃいけない。そんなふうに考えていたらその1カ月後に、起用するチャンスが舞い降りてきた。ラジオの神がいるとしたら、ここで導かれたとしかおもえない。『ザ・トップ5』の立ち上げは、スーさんがラジオに初登場して約1カ月後、6月末に動き出したのだ。

 この番組で必須だったキャスティングである「フリーランスでトークが面白い大人」の存在は、まさにジェーン・スーさんがいたからこそイメージできていた。スーさんこそ、探していた仲間だった。会ったときには気づかなかったけど、実はこの人こそが『南総里見八犬伝』で玉を持っている剣士だったのだ。

 

 キャスティングが自由っていうのはこういう可能性を呼び込むことになるんだから、やはり大切だ。このとき、「もっと有名人にしてもらわないとスポンサーに売れません」と営業に言われていたら、スーさんはラジオパーソナリティになっていなかっただろう。TBSラジオの当時の編成および営業担当の人たち、ありがとう。

『ザ・トップ5』は、他にもコンバットRECさんや高野政所さんという「トークは抜群に面白いけど誰ですかこの人たちは」というメンバーで始まった。なかでもスーさんが際立ってパーソナリティとして完成度の高い人だったことは、トークを聴いたリスナーならもう知っているだろう。さらに、今に至る活躍を知っていれば、この人が里見家ならぬラジオ界を救う剣士だったんだなということもわかるだろう。

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