あまりに酷かった現地校での学校生活

 大川さんの父親は、香川では地主として成功したそうですが、戦争の賠償金で日本はよくならないだろうと見立てたのと、日本では仕事をやり尽くしたという理由で、一家を連れてアマゾンの土地へ向かいました。

 大川さん一家を含め、日本人に割り当てられたベレンのグアマ川沿いの土地は、開拓には全く不向きで、大潮のときには水位が上がり、土地は水浸しでダメになる。グアマ川では、船が通れば大波が来て、水上の小舟の向きを間違えば転覆し、下手すれば命を落とすような状況でした。

当時のブラジル移民資料を大事に保管している

 現地校に通っていた大川さんは、ブラジル人に「ジャポネス、日本に帰れ」「(サッカーのときには)ポストの前で立ってろ」とバカにされたそう。また、ベレンの日本人同士での揉め事もあったといいます。

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 あまりに学校生活が酷かったので、現地校には行かなくなり独学で勉強をし続けることに。ただ、家庭内には子供向けの本も娯楽もないような厳しい環境。日本人社会のあるサンパウロの日本語出版物が届きはじめるようになるのは、まだもう少し先のこと。

 大川さんによると、「同じように日本から来た、お兄さん的な人が家に招いて日本語の勉強を教えてくれたんですよ」。こうした善意により、大川さんの日本語能力はアマゾンでも失われなかったのだ。

80年代の経済危機を機に、故郷の日本へ

 大川さん一家が暮らした場所は、日本人移民にとってあまりにも過酷な土地だったのです。「『親父、なんでこんなところに連れてきたんだよ!』と相当反抗しましたよ」と大川さん。やりきれない日常の不満が爆発したこともあるといいます。

 大川さん一家はそれでもなんとかその土地で生き抜くと、やがてその環境から抜け出す機会を得ます。

「ある日本人が島をもっていて、10家族くらいで集団移住したんですよ。私たちも一緒に行って、その後も移住して……3回目で暮らしがよくなったね。車が買えるようになったんですよ」

当時を回想する大川さん

 こうしてブラジルでの暮らしは徐々に改善し、順風満帆な生活を送るはずでした。しかし、ブラジルは80年代にハイパーインフレとなる経済危機に。ブラジルは治安が悪くなってしまったため、大川さんは現地で得た資産を売り、その資金で故郷の日本へ帰ったそう。

 その後、大川さんは静岡県湖西市のスズキ工場を皮切りに、日本の各地を転々とし、日本のものづくりを支えるようになります。そこで日系ブラジル人の苦労を目の当たりにしたことで、彼ら彼女らを「食」で支えようと決意。菊川市にブラジル料理屋をオープンすると大好評になりました。ただし、このお店はコスモスではありません。