母の急死をきっかけに、認知症と診断された父の介護に直面したノンフィクション作家の髙橋秀実さん。
父が繰り出す予想外の言動をハイデガーなどの哲学思想と結びつけ、「確かにそうだ」といつしか感心しながら向き合った髙橋さんの思索の跡は『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』(新潮社)で読むことができる。
ここでは本書より一部を抜粋して、給仕を受けないと食事ができない父の状況に「家父長制」の影響を見る、髙橋さんの気づきが詰まったエピソードをお届けする。(全4回の2回目/最初から読む)
※文字化けや表示崩れを防ぐため、旧字体は新字体(常用漢字)に変換して掲載しています。
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スーパーの前で母を待つ
スーパーの前を通り過ぎようとすると、入口付近にリュックサックを背負った父が立っており、私はびっくりしてブレーキを踏んだ。ぽかんと呆然とした表情の父。まるで徘徊する認知症の老人のようではないか。実際、認知症の老人なのだが。
――お父さん!
遠くから声をかけると、父が顔を上げた。
――どうしたの?
「いや、どうしたもこうしたも、お母ちゃんがさ」
――お母さんが?
「出てこないんだよ。さっきからずっと待ってるんだけっども」
父は母を待っていた。その佇まいは飼い主を待っている犬のようだった。以前もこうして買い物をしていたのだろう。
――お母さんはウチだよ。
咄嗟に私がそう言うと、父は目を丸くした。
「そうなのか?」
――そう。ウチにいるから。だから帰ろうよ。
「なんだそうなのか。なんだなんだ、てっきり俺はまだかまだかと思っててさ。でもあれだね、よくわかったね」
――何が?
「いや、俺のこと」
自分を指差す父。
――わかるよ。だってお父さんじゃん。
「えっ、そうかい?」
――そうだよ。
私は父を抱きしめ、すっかり冷えている背中をさすった。骨ばった背中は洗濯板のように硬かった。考えてみれば、父はいつも何かを待っていた。ボケは待ちボケというべきか、何を待っているのかわからず、待ち切れずに外に出て、外で待つ。待つことで世界を取り戻そうとしているかのようなのである。実際、私と歩き始めるといつもの調子を取り戻したようで、「見て、この景色」「最高!」などと叫び、みるみるうちに顔が赤らんできた。
冷蔵庫の中に新聞
「ただいま」
私はそう声をかけて家に入った。母がウチにいるという設定なのだが、なぜか父は家には入らず、庭のまわりをうろうろした。とり急ぎ、私は冷蔵庫を開けてみた。すると数日前に用意していった経口流動食「メイバランス」やパン類がほとんどそのまま置かれている。その後に弟夫婦が追加した食材もそのまま。「定期巡回」のスタッフが出してくれた食事もそのまま冷蔵庫に戻してある。冷蔵庫には新聞や急須まで入っており、急須の蓋を開けて見ると、中にはオリーブオイルが満タンに入っていた。大好物のあんパンだけは食べたようで、その空袋がなぜか換気扇の紐に縛りつけられていたのである。
おそらく父は食事を片付けたのだろう。父にとっては「食べる」と「片付ける」はほぼ同義で、こうして片付けることで食べた気になっているのかもしれない。
