タイムスリップした父
入院して1週間ほど経つと、病院生活にも慣れたのか、父はそれこそ「父らしさ」を取り戻したようだった。顔色もよく体調も良好。そのせいか認知症も次の段階に進んだようだった。
付き添って寝泊まりしている私のことを「旦那」と呼ぶ。完全に見ず知らずの人になってしまったようなのである。例えばある午後、父は私にこうたずねた。
「旦那はここ、初めてなんですか?」
真剣な面持ちの父。「初めてじゃありません」とかしこまって答えると、こう続けた。
「いや、あたしなんかペンキ屋なんです。それこそ100円もらうところを50円でやったりしてるんですよ。ここなんかずいぶん広いでしょ。大家さんは誰なんですかね」
ここは仕事で来た現場。私はそこに居合わせた「旦那」のようなのだ。
「今度ウチの近くに来たら寄ってくださいよ。川のそばでタカハシっていえばすぐわかりますから。あたしは昭二っていうんです。『昭二、しっかりしろ!』っていつも言われているんですよ。旦那も知ってると思うけど、ウチの近くには井戸があってね。わかります? 井戸って。水道じゃないですよ。わかんないでしょうね、本当に田舎ですから。こう、ガラガラガラガラ引っ張ってね。ウチは井戸端なんですよ。今度お見せしますよ。だから来てくださいよ。おふくろもよろこぶからさ」
父は一気に語り続けた。「お母さんと一緒に住んでいるんですか?」とたずねてみると、「おふくろでしょ、あと妹」と指折り数えた。
――結婚はしてないんですか?
「俺?」
――そう。
「してないですよ、旦那。だってこれがいないじゃん」
小指を立て、私を小突く父。
――今、いくつなんですか?
試みにそうたずねると、父は自分を指差した。
「あたし? 歳? 28歳」
ちょうど結婚前の歳である。タイムスリップとしては年齢が合っている。
「だからさ、ウチに泊まればいいじゃん。ふたりで布団に入って寝ようよ。誰もいないところでさ。来てくれればうれしいよ。もう泣きたくなっちゃう」
父は私を口説いているのだろうか。そういえば入院以来、私に何度も「いい体してるね」「貫禄があって素敵」「こっちに来て抱き合って寝ようよ」などとベッドに誘っていた。よもや一体化したいのか、と私はひるんだ。
――昌雄さんはどうしたんですか?
唐突に私はたずねた。昌雄さんとは父の長兄。父が28歳の頃、昌雄さんはシベリアでの抑留生活を終えて帰国していたはずである。
「ま、昌雄は兄貴だよ」
父は目を丸くして驚いた。
――シベリアから帰ってきたんでしょ?
「おおおおお、よく知ってんじゃないですか。俺の兄貴だよ。俺の兄貴。いやいやいやいやいや、本当にびっくりした。なんで、なんで知ってるの?」
――ウタちゃんだって知ってますよ。
「ウタちゃんは俺の妹。うわあ、やめてよ、本当に」
父は「うわあ、うわあ」と繰り返し、卒倒するようにベッドに倒れ込み、シーツをかきむしって大よろこびした。