『男はつらいよ』は年に2回公開されるとあって、別の作品を撮り終えると、自分に戻る暇もなく再びさくらにならなくてはいけなかった。『遙かなる山の呼び声』を終えたときのように役がなかなか抜けない場合はなおさらつらく、すっかり気が重くなり、しばらく休みたい、それが許されないなら、俳優をやめてしまってもいいとまで思い悩んだ。

「役者は役名で呼ばれるうちが花だよ」

 そこで交友のあった作家の藤原審爾に相談すると、「おまえ、もう長くやりすぎている。ここまで走ってきたんだから、これからも走る以外にないよ。走り続けろ」という答えが返ってきた。渥美清にも、自分とさくらを同一視されることを重荷に感じていると話すと、「役者は役名で呼ばれるうちが花だよ」と諭されたという。

渥美清 ©文藝春秋

 そんな時期、1983年1月に倍賞は渥美、山田洋次とそろって都民文化栄誉章を授与される。受章決定を知らされたのは、『男はつらいよ』の新作の撮影が始まったある朝、監督からだった。そのとき《この賞をバネに開き直るしかないんだと覚悟を決めました。/むりやり倍賞さんとさくらさんを分けないで、自然のままでいようと決めたら、急に体が楽になったのです》と倍賞は著書に記している(倍賞千恵子『お兄ちゃん』廣済堂出版、1997年)。

ADVERTISEMENT

さくらは憧れの女性で、大親友だった

 第48作目となる『男はつらいよ 寅次郎 紅の花』の公開の翌年、1996年に渥美が68歳で亡くなったため、『男はつらいよ』シリーズはいったん区切りをつけた。それから20年ほど経って振り返ってみると、倍賞はシリーズに出演を続けるなかで、普通の主婦としての生き方、人との付き合い方、接し方と、さくらから教えてもらうことがたくさんあったという。

1996年、最後のポスター撮影となった“寅さんファミリー”。中央が倍賞千恵子、左端は山田洋次監督 ©時事通信社

 それゆえに、さくらは倍賞にとって言わば憧れの女性であり、長らく互いに触発し合ったり、発見し合ったり、教え合ったりしてきたという意味では大親友でもあった。《何年も会っていなくても、会った瞬間からすーっと入っていけてしまう。だから、私はさくらさんによってつくられ、さくらさんも倍賞千恵子によってつくられたのでしょう》との一文(倍賞千恵子『倍賞千恵子の現場』PHP新書、2017年)からは、ほかのどんな役よりもかけがえのない存在であったことが伝わってくる。

妹の美津子と共演、ベッドシーンも

 40代後半に入ってからも『男はつらいよ』に出演を続ける一方で、『離婚しない女』(1986年)では妹の美津子と初めて映画で共演し、またベッドシーンもあったため、ややセンセーショナルに宣伝された。本人は当時、《話題になるほど過激じゃなかったの、台本段階では。映画って、つくっていきながら、いろいろ練っていくでしょう。監督はもちろん、みんながその中にのめり込んじゃってるから、裸のシーンがなきゃいけない、それがないと映画自体が成り立たないとなると、わりと自然にできちゃうのね》と、あっけらかんと語っていた(『婦人公論』1986年11月号)。

倍賞千恵子と、妹の倍賞美津子 ©文藝春秋

 倍賞にとって40代は模索の時期だったともいえる。俳優とは別のことにも力を入れたいと、歌手として毎年、コンサートを開催するようになったのもこのころからだった。そこで生涯の伴侶と出会うことにもなる。(つづく)

次の記事に続く 51歳で8歳下夫と再婚、乳がん手術では驚きの行動に…倍賞千恵子(85)が歳を重ねて気づいた“新鮮な日々”「私の生活は普通じゃなかったから…」