21世紀を「戦争の世紀」に変えつつある“元凶”の1人が、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相(76)だ。彼が政治の世界に足を踏み入れたきっかけは、1976年の親パレスチナの過激派による飛行機ハイジャック事件で兄を失い、テロ対策の専門家としての活動を始めたことにあったという。現在の地位を確立させるまでの、政治家としての歩みに迫った。

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 82年、駐米イスラエル大使館の報道官に抜擢され、2年後、34歳にして国連大使を拝命、出世への階段を駆け上がった。パレスチナ占領によって、国連の場で度々批判を受ける母国を、巧みな弁舌とアメリカ仕込みの英語で擁護し、一躍有名になるのだ。88年、ベンヤミンは国連大使を退任して再びイスラエルに戻り、右派政治家としての歩みを進める。

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トランプ大統領にイラン攻撃を提案したネタニヤフ首相 ©時事通信社

 しかし、時代はイスラエルとパレスチナとの和平を模索していた。パレスチナ解放機構(PLO)は、イスラエルの存在を一切認めてこなかったが、88年には、67年以前の境界線でのイスラエルの存在を認め、和平に向けて大きく前進。93年、ついにパレスチナの暫定自治を認めるオスロ合意が成立し、イスラエルのイツハク・ラビン首相とパレスチナのヤーセル・アラファト議長らがノーベル平和賞を受賞し、一躍、時の人となった。

 パレスチナ問題の解決に一筋の希望が見えた時、オスロ合意を猛烈に批判し、右派内で存在感を高めた人物がまさにネタニヤフだ。合意に向けた協議が進む中、ネタニヤフは93年3月、強硬右派政党リクードの代表選挙で過半数を獲得して、代表となり、当時の政権政党だった中道左派「労働党」への批判を強めた。

テルアビブで行われたデモ。ネタニヤフ首相の顔に「失敗した」と書かれている(筆者提供、2026年5月29-30日)

ミスター・ネバー・パレスチナ

 当時のネタニヤフを最も象徴するのが、95年10月、エルサレム中心部で行われた反オスロ合意集会だ。広場に面する建物のバルコニーにはリクード議員が現れ、集まった右派支持者が合意への反対を唱えた。シュプレヒコールは徐々に過激化し、オスロ合意の立役者である当時のラビン首相(労働党)に対し、「ラビンは裏切り者だ」「ラビンに死を」などの声も飛んだ。過熱ぶりに危険を感じた他のリクード議員がバルコニーを後にする中、その場に残ったのがネタニヤフだ。まさにパレスチナに一切の妥協を見せない右派政治家ネタニヤフが誕生した瞬間だった。その1カ月後、ラビン首相が右派の過激派によってテルアビブで暗殺され、風向きが変わった。弔い合戦となった96年の首相公選選挙でネタニヤフが勝利し、ついに首相の座に上り詰めた。以来、99年と2021年に二度退陣したが、不死鳥のように蘇っては、通算18年間にわたり首相を務めている。