世界的な俳優ジャン・レノによる初の小説は、中東を舞台に情報戦に巻き込まれてしまう若い女性エマ・モルヴァンが主人公。彼の代表作の一つ、リュック・ベッソン監督の『ニキータ』を思わせる設定だ。ただしエマは暗殺や武器とは無縁の一流マッサージ療法士。
仏ブルターニュの海洋療法施設で働く彼女は、中東オマーンからやってきた若き権力者タリクの肌に触れた途端、激しい《波動》に襲われる。その縁からか、美貌のエマは彼が故国に建設中の豪華スパ施設の指導員として招かれることに。そこから目眩く二人の恋が始まる、と思いきや甘い時間は一瞬で、エマは仏政府から監視対象であるタリクを探るよう強要され、異国でジェームズ・ボンドの如く立ちまわらざるを得なくなる。
レノの筆致はとても映像的だ。短いカットを畳みかけたかと思えば、エマの内なる葛藤をカメラを据えたように掘り下げたり、官能的な場面での緩急ある描写は、まるでハリウッドのスパイ映画。しかしこれは単なるスパイ誕生物語ではない。当初、自分の中に棲む母親の亡霊に縛られていたエマが、デラシネ(根無草)になると決意するまでの話であり、親離れの話でもある。とはいえ国には縛られてしまうが。おそらくこれには亡命スペイン人の両親のもとモロッコに生まれ、フランスに移住し、今はアメリカに暮らしつつ世界中で仕事をするレノの感覚が投影されているのだろう。
現在レノは自叙伝的舞台『らくだ』のため日本各地を回っている。残念ながら未見なのだが、自らをらくだに例えているという。ゆっくりではあるがどこまでも行ける逞しさと愛らしさを備えた、らくだ。
エマが生き生きと描かれている一方で、タリクはハンサムで知的でポロが得意という以外、特徴がないのが少々残念。しかし彼と出会ったことで、エマは《波動》という『スター・ウォーズ』の世界でいうフォースのような力に目覚めていく。どうやらエマの祖父にも同じ力があったようで、映像化されたらレノはこの役を演じそうだ。実は彼にぴったりの役がもう一つあるのだが、いささか設定が若いので、誰が演じたらハマるだろうか、と想像するのも一興。
視覚的な表現をうまく活かした翻訳もリズム感があり読みやすいが、一つだけ気になった点が……。危険な任務を依頼され「エマ・クロフト役を演じるつもりはない」と反発する場面で、注釈には「イギリスの女優、映画監督」とあり実在もするが、これはむしろアンジェリーナ・ジョリーが『トゥームレイダー』で演じた冒険家ララ・クロフトに掛けているのでは。ララと、生来の機転の良さで危機を切り抜け、人間関係にドライなエマは近い部分がある。
すでにフランスではシリーズ2作目も出版されている。エマのスパイとしての成長ぶりが楽しみだ。
Jean Reno/1948年モロッコ、カサブランカ生まれ。のちにフランスに移住し、演劇界に入る。映画『グラン・ブルー』(88)で世界的スターの地位を確立。主演作『レオン』(94)で圧倒的な支持を得てハリウッドに進出。2024年、本作で作家デビュー。
いしづあやこ/東京都生まれ。映画評論家。カンヌ国際映画祭をはじめ世界各地の映画祭を取材。ゴールデングローブ賞国際投票者。
