「私は、誰からも必要とされていないのかもしれない――」

 大学時代、アナウンサーを目指して約100社もの採用試験に挑みながら、一社も内定を得られないまま卒業を迎えた関森ありささん。手応えを感じていた地方局の最終面接でも、帰りの新幹線の中でお祈りメールが届き、人目もはばからず大泣きしてしまったこともあった。

 あれから約9年。現在は人力車車夫とラジオDJという異色のダブルワークを続け、昨年には『踊る!さんま御殿!!』にも出演。浅草の人力車業界では女性初の店長として後輩の育成にも携わっている。

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 数々の挫折を乗り越え、自分だけの居場所を見つけた関森さんのこれまでの歩みを聞いた。(全4回の2回目/最初から読む

関森ありささん ©佐藤亘/文藝春秋

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「人力車の車夫」を自分だけの武器に

ーー関森さんはアナウンサー試験に落ち続け、内定が決まらないまま大学を卒業することになってしまったと伺いました。そんな苦しい時期に、前を向くきっかけになった出来事はあったのでしょうか。

関森ありささん(以下、関森) 就職活動を続ける中で、「自分には何も取り柄がない」とアナウンススクールの先生へ相談したことがありました。すると先生から、「人力車の車夫をやってみたらどうかな。何か一つ、自分だけの武器になる経験を作ってみるのもいいと思う」と勧めていただいたんです。

「エントリーシートにも書ける経験になるし、まずはやってみよう」と思い、浅草の「天下車屋」で人力車夫のアルバイトを始めることにしました。その中で、地元のラジオ局であるレインボータウンFMの採用試験を受ける機会があったんです。

祖父の存在に支えられラジオDJに

ーーアナウンサーという夢を追い続ける中で、ラジオ局という選択肢も広がっていったのですね。

関森 ラジオの世界を目指すうえで、大きな支えになってくれたのが祖父でした。母が仕事で忙しかったこともあり、子どもの頃は祖父母の家で過ごすことが多かったんです。祖父は目が見えなかったので、夜になるといつも一緒にラジオを聴いていました。

「ラジオから私の声が聞こえたら、祖父が喜んでくれるかもしれない」。そんな思いがあり、最後の望みを懸けて面接に臨みました。就職活動中も、不採用の通知が届いて落ち込んでいる時には、「大丈夫だよ。きっと受け入れてもらえるところがあるよ」と、祖父がいつも励ましてくれたんです。

©佐藤亘/文藝春秋

 たくさん心配や迷惑をかけてしまいましたが、祖父は4年前にがんで亡くなるまで、どんな時も私の一番の味方でいてくれました。

ーーどんな時も味方でいてくださったお祖父様の存在が、とても大きな支えだったのですね。現在は、人力車車夫とラジオDJという二つのお仕事を両立されていますが、今の働き方につながったきっかけを教えてください。

関森 ラジオ局の局長から、「人力車の仕事を続けるなら採用するよ」と言っていただいたんです。とても驚きましたが、私自身も車夫の仕事をもう少し続けてみたいという気持ちがありました。

 そこで改めて両方の仕事と真剣に向き合おうと決め、人力車車夫とラジオDJを両立する、今の働き方につながっています。