関森 一番体力的に大変だったのは、「最強ラガーマン」として知られるノッコン寺田さんをご案内した時です。体重が150キロ近くある方で、もう一人のお客様と人力車の重さを合わせると、200キロを超えていたんです。
しかも、その日は雨でした。自分の体重の4倍以上もの重さを乗せて走ったので、本当に必死でした。
ーーそれは想像以上の重さですね。しかも雨の日となると、本当に大変だったことが伝わってきます。そんな経験を重ねる中で「人力車の仕事を続けてきて良かった」と感じた出来事はありますか。
関森 雷門の前で、女性のお客様から声をかけていただき、人力車に乗っていただいたことがありました。浅草のパワースポットを一緒に巡りながら、いろいろなお話をさせていただいたんです。
ひと通り観光を終えた頃、その方が「実は私、闘病中なんです。次に浅草へ来られるか分からないので、今日は人力車に乗りに来ました」と打ち明けてくださいました。ご案内の最後には、「また乗りに来られるように、治療頑張ります」と笑顔で言ってくださったんです。こうした出会いがあるからこそ、これからも人力車を続けていこうと思えました。
ーー人力車は9年目、ラジオも8年目を迎えられました。二つの仕事を長く続けたいと思える原動力は、どこにあるのでしょうか。
関森 やはり、就職活動で挫折を経験したことが大きいと思います。100社面接に落ち続ける中で、当時は自分の居場所がどこにもないような感覚がありました。でも、当時はマイナスだと思っていた出来事も、振り返ってみると今につながっているんです。挑戦して失敗したことも、決して無駄ではなかったんだなと思います。
今は、浅草でも、ラジオ局でも必要としていただいている。そのありがたさを日々感じています。家族の支えもありますし、人力車は毎日違う出会いがあるんです。
ーー今では浅草を代表する車夫のお一人ですが、これまでにはコロナ禍という大きな試練も経験されました。当時の浅草は、どのような状況だったのでしょうか。
関森 コロナ禍では閉店してしまったお店もたくさんありました。観光客の姿はほとんどなくなり、いつもは人力車や笑い声で賑わっていた雷門や仲見世通りも、人影がまばらで街全体が静まり返っていました。
あれほど活気のあった浅草が、まるで別の街になってしまったようで、「こんな浅草を見る日が来るなんて」と、胸が締め付けられる思いでした。ただ、その時は人力車会社だけではなく、街全体で支え合いながら乗り越えていた印象があります。
私自身もラジオを通じて浅草の魅力を発信し続けていました。今は再び多くの観光客の方が訪れるようになりましたが、だからこそ、この街の魅力を一人でも多くの方へ伝えていきたいという思いは、以前より強くなっています。
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