吉田はここから、ある意味で、疲労を味方につけた。
「力が入らない中で、かえって無駄のないフォームで、キレのあるボールが投げられるようになった」
準々決勝の近江戦は140球で3-2、準決勝の日大三戦は134球で2-1と、それぞれ勝利。打たせて取る投球を覚えた吉田の球数は、投げるたびに減っていった。
金足農が決勝進出を決めた直後、編集者から再度、メールがきた。
〈もしものもしもまで来ましたね〉
決勝の結果いかんにかかわらず、原稿を頼みたいとの内容だった。もはや私も書かずにはいられないという気持ちになっていた。
決勝戦、金足農は大阪桐蔭に2-13で大敗した。最後の「もしも」はかなわなかったが、準優勝でも、今も信じられないような心境である。
金足農は秋田大会の初戦から甲子園の決勝まで全11試合、たった9人で戦い抜いた。しかも全国一過疎化の進む秋田県のいち地域から偶然集まった選手たちである。
現代の高校野球において、こんなことが可能なのだろうか(可能だったわけだが……)。まるでおとぎ話だ。
大会を終え、秋田を訪ね、彼らがどのような想いを背負って戦ってきたかを、発売中の「文藝春秋」10月号「吉田輝星を生んだ金足農『34年の絆』」で書いた。監督、選手、OBにじっくりと話を聞いて、腑に落ちた部分はあるにせよ、それでもまだ夢を見ているような心持だ。
大阪桐蔭か、金足農か
大会記念号を出す予定だった出版社の編集者たちは、決勝後、表紙を史上初となる二度目の春夏連覇を達成した大阪桐蔭にするか、旋風を起こした金足農の吉田にするかで、ずいぶんと迷っているようだった。
報道的な立場を貫くなら大阪桐蔭だろうし、印象を優先するならやはり吉田だろう。
あと10年、20年経ったとき、この夏、100回を迎えた全国高校野球選手権大会をわれわれは、どう振り返るのだろうか。
何十年経とうとも大阪桐蔭の偉業は、色あせるものではない。
ただ、こう回顧せざるをえない気がする。
金農(カナノウ)の夏だった、と。