昭和46年まで外部へ繋がる道路がなかった琵琶湖最北部の集落「菅浦」。
前編では、有事の際に敵を押し潰すための「四足門」の存在など、要塞のような施設を遺しながらも、現在はのどかな雰囲気に包まれた村の姿をレポートした。なぜこの小さな村は、過去、そこまでして外部を警戒する必要があったのか。後編では、国宝「菅浦文書」から紐解かれる隣村との血みどろの戦いと、現在も村にただ1人残る裁判官「長老衆」の存在など、現代の私たちが驚くような高度な自治と掟の歴史に迫る。
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「私が小さい頃は、道路はなかったですよ」と古老は語った
遊歩道の奥深く、現役なのかも怪しい道の先で出会った菅浦の古老。ずっとこの地で暮らしてきたという彼に昔のことを聞くと、懐かしそうに語り始めた。
「私が小さい頃は、道路はなかったですよ」
昭和46年に奥琵琶湖パークウェイが開通するよりも前は、琵琶湖沿いに踏み跡があって、子供の頃はそこを歩いて小学校に通学していた。中学校は遠く、琵琶湖が入り江になっている部分は渡し船に乗せてもらっていたそうだ。
家業は林業だったが、林業といっても材木ではなく薪や柴が中心で、船で琵琶湖の向こうへ売りに行っていた。次第にガスや石油が台頭してくると薪の需要が激減し、家業は成り立たなくなったという。
意外だったのは、道路ができるよりも以前、道がなくても特に不便だと思わなかったということだ。それが当たり前だったというのもあるが、琵琶湖の周辺においては、古来より水運が発達していた。各所に港が整備され、最盛期の江戸時代には琵琶湖の上を1300隻以上の船が行き交っていたという。琵琶湖の周囲には大津、草津、野洲、長浜、今津など、さんずいがつく地名が多いのも、その名残だろう。ここ菅浦においても、集落の外に行く時は個人所有の船で大浦に出るのが一般的だったようだ。
昭和41年になると自衛隊が砂利道を整備してくれたが、大浦の手前までだった。昭和46年に奥琵琶湖パークウェイが開通し、はじめて外部と陸路で繋がった。ちなみに自衛隊が道路を建設するケースは一定数あり、特に難工事が予想され、民間の事業者では建設が難しい場合に自衛隊が受託するケースが多い。
奥琵琶湖パークウェイ開通後に起きた変化
奥琵琶湖パークウェイの開業によって菅浦の人々の暮らしがどう変わったのか聞いてみた。


