寛正の争いは、行商に行った菅浦の若者が盗賊と間違われて殺害され、商品も全て強奪されたことに憤慨した菅浦の人たちが、報復の夜襲を仕掛けた。最終的には、解決のため領主である日野裏松家において湯起請といわれる神判が行われた。湯起請では、双方が熱湯に手を入れて酷く火傷したほうが敗訴となる。菅浦側は当事者が殺害されているため、母親である老婆が出廷。老婆の手が酷く爛れたため菅浦が敗訴となった。
日野裏松家は敗訴した菅浦を討伐するため大軍を差し向け、菅浦を包囲。菅浦は全員が討ち死にを覚悟し、立て籠もるために要害を設けて来襲を待ち受けた。この時の要害こそが、四足門であったのかもしれない。菅浦滅亡の危機だったが、下手人を差し出して降参したことで危機を脱することができた。この時、今後は多少のことは我慢してでも争い事を避けるように、末代までこの事件を教訓にするべきだ、という趣旨の文書を残している。これをもって、菅浦と大浦の約200年におよぶ争いは終結した。
何百年も続いてきた文化や風習が、今まさに消えようとしている
惣村というのは、自分たちの力だけで自分たちの土地や財産を守る必要があり、時として武力や攻撃性も必要となる。また、それ以上に高度な知恵も必要だ。菅浦は古くから天皇に供える食物を献上する贄人であり、琵琶湖周辺の寺社との結びつきも深かった。館長さんは、こうしたことも周囲との争いが生じた時、交渉を有利に進めるために役立ったのではないかと話す。
ちょっとした好奇心から「今はもう大浦との禍根はないんですか?」と尋ねたところ、館長さんは「もう500年以上前のことだから、そんなこと気にしてないよ」と完全に否定された。
長老衆の古老は「わだかまりはないですけど、歴史的なことがあるんで、向こうが何か言うてきたら、『何言うてるんや』と絶対言い返す」とのこと。
500年前の争いがまだ続いているのかと思ったが、これは別に菅浦と大浦の仲が悪いわけではない。古くから自治を旨としてきた集落の長老衆だけに、相手が誰であっても主張すべきことはしっかりと主張しないといけないという責任感の表れだと感じた。
菅浦集落は、奥琵琶湖パークウェイが開通して以降、激動の時代を迎えている。世帯数は半減し、担い手不足からお祭りで山車を出せなくなった。長老衆も然りで、何百年も続いてきた文化や風習が、今まさに消えようとしている。
かつては四足門を設けて外部からの侵入者を厳しく監視していたが、現在の菅浦は琵琶湖と山に挟まれた長閑な集落だ。お話を聞いた人たちは、皆さん優しく、歓迎してくれた。静かな集落を乱さないように気を付けながら、ぜひ実際に訪れてみてほしい。今の菅浦は、今しか見ることができないのだから。
※菅浦集落入り口の駐車場は数に限りがあります。菅浦郷土史料館は4月~11月の日曜日のみの開館です。訪問される際はご注意下さい。
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

