菅浦は日本における惣村(注:主に農民が自衛や生活防衛のため結成した自治的な共同組織)を代表するような存在で、鎌倉・室町時代の中世より、村人が自分たちの生命や財産を守るため、高度な自治が行われてきた。
法律に相当する“村掟”を定め、罪を犯した者や侵入者を捕らえて罰を与えていた。罪人を裁く際は私的な関係を持ち込まずに証拠を重視し、村掟に基づいて公正に行われていた。また、罪は本人だけのもので、次の世代には罪はないとしていた。館長さんによると、大昔から人道的で現在に近い先進的な審判が行われており、それによって100世帯あまりの小さなコミュニティーが永年、維持されてきたのだという。
戦国時代になると菅浦は浅井氏により支配され、自ら作った村掟に基づき罪人を処罰する自検断を奪われてしまった。自治の根幹は失われたが、その中心を担っていた組織は残り、村内の運営を続けてきた。驚くべきことに、自検断が奪われて500年近くが経過した現在においても“長老衆”としてその組織が残り続けている。
運よくその場に居合わせた長老衆の方に話を聞くことができた。長老衆は、江戸時代までは集落内の罪人を裁く裁判官の役割を担っていたが、現在はどうなっているのだろうか。
「例えば土地の境がどこだってなったら、行ってお互いの意見聞いて、じゃあここにしましょうとしたり、そういうのが昔からずっとあるんですよ」と笑顔で話す。
現在では大きな役割はなく、多くは雑用だというが、長老衆という役割が残っていることに驚いた。自治会長や会計など、自治会の役職の一つとして長老衆があり、持ち回りでこなしているという。少子高齢化で担い手も少なく、かつては8人だった長老衆も今は1人だけで、廃止も検討しているという。
約200年におよぶ隣村との激しい争い
そして、菅浦文書の中でも存在感を放っているのが、隣村である大浦との激しい争いの歴史だ。菅浦の北西にある棚田を巡り、今から700年以上前の永仁3年(1295年)、既に争いが始まっていた。棚田は菅浦のものだという主張に対し、大浦としては、そもそも菅浦は大浦の一部であるという主張だったため、根本的に交わるところがなかった。
時には周辺の集落に援軍を要請するなどして血みどろの争いが続いた。特に文安と寛正の争いは激しいもので、館長さんによると「双方で60人ほどが亡くなった」という。
