クエンティン・タランティーノの登場を、映画史上のパラダイムだと言うと、いささか大げさすぎると言われるかも知れない。だが、タランティーノは間違いなくひとつの時代を画する存在である。タランティーノの映画はひとつの美学の表現である。それは、言うならばビデオ時代の映画美学というべきものだ。

『おれの映画人生』

 1963年生まれのタランティーノは、もちろん、名画座や二番館で映画ファンになった世代である。だが、多感な映画ファン時代に、ビデオの登場により、同じ映画を何度もくりかえし見ることができるようになった世代でもある。名画座時代の映画マニアはすべてを記憶しなければならなかった。映画館に通っては、同じ映画を何度も見て、スクリーンを睨みつけて映画のディテールのすべてを覚えこもうとした。映画との出会いは一期一会で、見逃したらもう二度と出会えないかもしれないのだから、そうせざるを得なかったのだ。

 ホームビデオの登場は映画とのつきあい方を根本的に変えた。好きな映画を所有して、自由に楽しむことができるようになった。ディテールは記憶するのではなく確認するものとなった。だが、いちばん変わったのは、映画における時間感覚だろう。映画館では、時間は一方向に流れ、観客は無抵抗にその流れに身をまかせるしかなかった。だが、ビデオでは違う。観客は自分の好きな場面だけをくりかえし見ることができる。早送りも巻き戻しもできる。映画の中で流れる時間を、観客は自分で決められる。観客は映画から自由を勝ち得たのだと言ってもいい。

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 それがビデオ時代の時間感覚である。

 タランティーノが『パルプ・フィクション』で、オムニバス形式の中で時系列をシャッフルさせてみせたとき、それは線的な映画の時間への反逆行為だった。それは間違いなく新しい試みだったが、なぜそれが可能だったのかは誰にもわかっていなかった。それはもちろん、タランティーノが新世代の映画マニアだったからである。映画マニアが映画を作るようになったのはヌーベルバーグからである。だがトリュフォーやゴダール、あるいは(タランティーノの言葉を借りれば)「映画小僧」たちであるピーター・ボグダノビッチやマーティン・スコセッシら前世代の映画マニアたちと、タランティーノは決定的に違っていた。

 それがタランティーノの、映画における時間の感覚である。タランティーノは映画において時間が一方向に流れる必要はない、と直観していた。ストーリーテリングと時間操作においては、タランティーノはスコセッシよりはるかにクリストファー・ノーランのほうに近いのだ。タランティーノやノーランの複雑な時間操作は、映画をビデオで二度三度と見ることが前提になっている。タランティーノの脚本自体が、ビデオ視聴を当然のものにしていると言えるだろう。