人間国宝の柳家小さんと、かつてその弟子であった立川談志は、関係は「特別の特別」であったという。伝わっているのは、ケンカを繰り返し、葬儀にさえ顔を出さなかったという「犬猿の仲」像である。

 門下だったころ、談志は一貫して一門の出世名だった「小三治」の襲名を切望していたが、小さんは「お前のように素行の悪いやつには小三治はやらない」と却下し続けたという逸話も有名である。

 では、実際の両者の仲はどのようなものだったのか。

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弟子2人が不合格

 そもそも小さん一門所属の談志が落語協会を脱退したのは、1983年5月30日に開催された第三回真打昇進試験がきっかけだった。

 それまでの年功序列によって自動的に真打に昇進する仕組みを改め、同協会は1980年、実力主義を掲げ、新たに試験制度を導入した。しかし、審査基準が曖昧で身内の間ですでに不満が続出していた。

柳家小さん Ⓒ文藝春秋

 事件が起きたのは第三回試験の翌日だった。その年は10人の二ツ目が受験した。結果、談志の弟子2人を含む6名が不合格となる。そのことに納得がいかなかった談志は、師匠であり、落語協会の会長でもあった小さんに噛みついたのだ。

 落第した談志門下のうちの1人である立川談四楼は、のちに『シャレのち曇り』(PHP文芸文庫)の中で、そのときの談志の様子を書いている。協会事務所と電話がつながるなり、こう啖呵を切ったという。

〈小さんに電話させろ、他の理事でも誰でもいい、弟子が落ちた理由を明確に述べろ。もしそれが納得できなかったら、俺にも考えがあるぞ〉

 どんな理由であれ、通常の師弟関係では許されない言動である。

 最終的に協会サイドから何の説明もなく、その1ヶ月後、談志は小さん一門を飛び出し、新たな落語家団体、立川流を設立することになる。いわば、謀反である。

 が、この図は、談志が描いた「だまし絵」だったのかもしれない。

 そもそも破門すらされていないのでは、と語るのは談志がことさらかわいがっていた弟弟子の柳家小袁治だ。談志と同じく兄弟子にあたる柳家小三治に憧れていたという小袁治は口調や、話すときの顔の傾け方などが小三治そっくりだった。

「クビにするつもりなんて、ゼロ。小さん師匠は瞬間湯沸かし器だから、すぐ怒る。でも、またすぐに『いいよ、お前』ってなるの。それがわかってるから、談志さんもわざとからかったりしてた。小さん師匠は一度も弟子をクビにしたことはないと思いますよ。器の大きな人だったから。だいたい『何だっていいんだよ』で済んじゃう」

 取材の初期段階で、容易に想像がついた。おそらく、誰に話を聞いても同じだと思った。談志と小さんが本当の意味での犬猿の仲だったと語る人は、じつは誰もいないのだ。