和の優秀さに目を留めた植村は、正規の看護師(トレインド・ナース)になるよう勧めた。しかし当時、看護師は医師や患者の雑用係と見なされて地位が低く、「出戻りか然(さ)もなくばあばづれのしたたか者と思われる様な者ばかり」(『職業婦人調査』)といわれる職業だったため、和は難色を示した。それでも、裕福な家庭に生まれながら従軍看護師として身を挺したナイチンゲールの話に心を動かされ、決心した。

このころ、母を慕っていた息子の六郎は念願叶って渡辺家を離れ、和と妹と和の母・哲との同居を開始する。しかし、育児の多くは祖母の哲が担った。

1886(明治19)年、和は桜井女学校に新設された附属看護婦養成所に入学。翌年には植村の一番町教会で洗礼を受け、寮に住み、帝国大学医科大学附属第一医院(現東京大学医学部附属病院)に実習に通いながら勉強を続けた。

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和は新潟へ、長男は孤独だった

養成所を卒業した和は1888(明治21)年に第一医院に乞われて婦長となったが、看護師の地位を上げようと奮闘するうちに医師たちとの間に軋轢が生じ、2年で退職。その後、開校したばかりの新潟県の高田女学校(現高田北城高等学校)に伝道師兼舎監として招かれ、教育の場へと移った。翌年には、第一医院の医師が高田に開いた知命堂病院の初代看護長に就任。さらに翌年には附属の「産婆看護婦養成所」の講師も務め、トレインド・ナースの育成に力を注いだ。

ところで、このころ子どもたちはどうしていたのだろうか。

残念ながら彼らについて触れられている史料はほとんどない。ただ、六郎が内向的な性格に育ち、世の中をななめに見るようなところがあったとする史料はある。学友たちとは違い、両親はそろっておらず、母も寮に住み込んだり新潟へ転勤したりして、顔を合わせる機会はめったにない。さらに、実の父親は別の女性と、母親違いの義兄とともに暮らしている。こうした境遇が六郎の心に影を落とした可能性はある。文学へ傾倒したといわれてもいるが、本に居場所を見いだしていたのかもしれない。