社会運動家・木下尚江との恋

1896(明治29)年、和は5年半勤めた女学校を辞して東京に戻ると、桜井女学校時代の同期だった鈴木雅が立ち上げた「東京看護婦会」の派出看護師として働き始める。翌年には講習所が設置され、講師を務める傍ら、伝染病患者の看護や、著書『看護婦派出心得』(1899年)の執筆、看護師会の団体結成などに奔走していた。日清戦争前後には、増加したもぐりの派出看護婦に心を痛め、内務省を訪ねては取締規則の強化を訴えてもいる。

和は感情が高ぶると涙が出るたちで、心から同情してくれると患者たちには評判が良かったが、上司や役人たちは閉口したらしい。植村正久にはナイチンゲールではなく「泣きチン蛙」だと言われたこともあったという。

そんな和にも、女性としての転機があった。1900(明治33)年、10歳年下の社会運動家・木下尚江と淡い恋愛関係に陥ったのだ。しかし、木下の奔放な女性関係を知る友人が強く反対し、和はこの話を諦めることになる。

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娘は20歳で死去、和のトラウマに

そしてこの年の6月、和は娘の心を突然、病で亡くした。母親らしいことも看護師らしいこともできぬまま、たった20歳で夭逝してしまった心に対し、和の悔恨はいかばかりだったろうか。他人にいくら「異日、ナイチンゲールとならん」(『東京婦人矯風会雑誌』)と褒められても、娘ひとり救うこともままならなかった事実は深く突き刺さったことだろう。後年、和は心の話題は極力避けていたともいわれている。

翌1901(明治34)年、和に再び結婚話が持ち上がった。相手や詳しい事情は伝わっていないが、この話も周囲の反対によって実現することはなかった。「どうか、どうか私の希望を邪魔しないで下さいまし、後生一生のお願い、この通りです」と涙を流して訴えたという逸話からも、和がこの結婚に強い思いを抱いていたことがうかがえる。このとき、43歳。多くの困難を乗り越えてきた和だったが、一人の女性として望む人生を手にすることは、なかなか叶わなかった。