この年、創始者だった鈴木雅(桜井女学校附属看護婦養成所の同窓生で元同僚)が「東京看護婦会」を退くと、和は会頭となる。内紛や同業者の妨害に遭いながらも奮闘し、1903(明治36)年には「東京看護婦会講習所」に通信講座部門を設置するなど、多忙な日々を過ごした。
息子は医師になろうとして挫折
このころ息子の六郎はといえば、文学を断念して医術開業試験に挑んだが不合格が続き、やがて家に閉じこもるようになった。偉大な母の陰で、自身の生き方を見いだせなかったのかもしれない。
六郎の息子、一郎から聞き取りを行った高橋政子は、和には包容力や広い視野がある一方、母性的な愛情に乏しく、子育てを祖母らに任せて社会活動を優先したと評している(「大関和のこと(補遺)」)。
猪突猛進にキリスト教精神で突っ走る和が、一番身近な家族に対するケアを十分に果たせなかったことは少し皮肉な感じもする。もっとも、当時は女性が社会活動と家庭を両立すること自体が困難だった。男性であれば家庭を顧みず仕事に邁進しても問題視されにくかった一方で、女性が同じように活動すれば、母性の欠如として批判されがちだったことには注意が必要である。
長男と看護師の教え子が結婚
1904(明治34)年、和は日露戦争の慰問袋の回収のために大八車を自ら押して、街中を駆け回った。「ああ、忙しい、忙しい」が口癖だったという。
一方、六郎にも朗報があった。この年、和の教え子で優秀な看護師である澤本操と結婚したのだ。和は「看護婦人矯風会」会報に「一年の間受けし恵」として「最愛の子に好配偶を与えられしこと」「愛子と嫁と母と平和の家庭が結びしこと」を綴った。ひとつ大きな荷を下ろしたような気持ちだったことだろう。操は大関家に同居しながら、和とともに看護婦会に出勤するようになった。
1905(明治40)年、和は関節リウマチの合併症である心臓弁膜症を患い、那須の温泉での療養を余儀なくされた。しかし、病床にあってもじっとしてはいられない性分は変わらず、『実地看護法』を執筆、出版するなど活動を続けた。1909(明治42)年には、東京・神田に念願だった「大関看護婦会」を設立する。