孫も生まれるが、悲劇が襲う

このころ、六郎と操は麹町で文具店を営んでいた。そしてこの年、待望の第1子、一郎が誕生したのである。六郎はがぜん奮起し、聖書販売の仕事があるという東南アジアに行くことを決意。出発を前に、和や哲も含めた一家は写真館で記念写真を撮影している。

ところが、単身ジャワ島へ渡った六郎は、翌年マラリアに罹患して帰らぬ人となる。享年33歳。息子の一郎はまだ2歳だった。

残された操は文具店をたたみ、「大関看護婦会支部」の看板を掲げたものの、次第に和のもとへ手伝いに通うことが増え、その後同居するようになった。しかし、6年後には彼女も病に倒れ、亡くなってしまう。一郎はわずか6歳で両親をなくしてしまった。

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看護婦の地位向上のため働いた

大関看護婦会は大正時代に全盛期を迎える。

和は一流の看護師十数人を抱え、そのうち約3分の1を内弟子として住み込ませ、生活全般から看護の専門知識までを教え込んだ。さらに妹とその次男を呼び寄せて家事を任せ、弟の遺児も引き取った。一郎は、多くの人に囲まれた賑やかな環境のなかで成長することになる。

和は、実の子どもたちに十分に手をかけられなかった埋め合わせをするかのように、一郎をとてもかわいがった。しかし、反抗期を迎えるころには手を焼き、かつての教え子の鎌倉の家に寄宿させ、そこから海星中学へ通わせることにする。

それでも一郎の奔放さは収まらず、和に時計を買わせたり、服を仕立てさせたりしたかと思えば、気に入らないものは売り払うこともあったという。

その後、一郎は和に学費を負担してもらい、明治学院へ進学。そして1932(昭和7)年、彼が卒業を迎えた年に、和はその生涯を閉じた。73歳だった。

葬儀の日に、本郷弓町一丁目26番地(現・文京区本郷1丁目)の大関看護婦会に届けられた花輪は本郷春木町(現・本郷3丁目)の坂の上まで数百メートルにわたって並べられたといわれ、訃報はラジオでも流れた。