広島への原爆投下においては、昭和20(1945)年だけで14万人(±1万人)が死亡したとされるが、そのうち約7万人が引き取り手のない遺骨となって、今も平和記念公園に安置されている。『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』(文藝春秋)などの著作があるジャーナリストの堀川惠子氏が、爆心で全滅した一家の3世代にわたる記憶をひも解いた(「『異形の原爆遺骨』ヒロシマ81年目の真実」)。その一部を紹介する。
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こぶし大の「塊」
今年2月、神戸市内の会議室。ある男性が、小さな紙箱を大切そうに運んできた。そっと蓋を開けると、石ころのようなこぶし大の「塊」が三つ。顔を近づけて凝視するうち、白い骨片が目に入り、息をのんだ。
溶けかけたガラスやコンクリのような瓦礫の中に、人間の骨が混ざっている。半分に引きちぎられた青銅のような眼鏡の縁が、頭蓋骨とおぼしき薄い骨片に溶け込み、その一部は真っ黒焦げの石くれに引っついている。本来、この世に存在しないはずの、異形の遺骨――。
「これは父が亡くなって墓じまいをしたとき、墓から出てきたものです。ミカン箱くらいの木箱の中に、瓦礫がぎっしり入っていましてね、なぜこんなものがと思って探るうち、瓦礫の中に骨が混ざっているのに気づきました。それで、ピンときて……。ああ、これは広島で全滅したと伝え聞いている、祖父母一家のものに違いないと」
そう語り出したのは、神戸市内に法律事務所を構える弁護士の野口善國さん。
そして私は先の遺骨に出合うことになった。長く広島の取材をしてきたが、このような凄惨な遺骨を見るのは初めてだ。生身の人間の上で炸裂した原子爆弾。そこで起きたことは、私たちの想像をはるかに超える。真実を見たのは、死者だけ。その死者が、目の前に現れた気がした。
野口さんの父が亡くなったのは1995年6月。その年の秋、父方のルーツがある愛媛県松山市内の寺で先祖代々の墓じまいをした。
「野口家の墓に、遺骨まじりの瓦礫を埋めたのは、私の父らしいのです。銀行マンだった父は、原爆のことは一言もしゃべらずに死んでしまいました。覚えているのは、母から断片的に聞いた話だけ。父は戦争末期、東京で働いていたそうですが、家族は広島にいた。新型爆弾で町が壊滅したという話を聞いて広島にかけつけ、家族の遺骨を掘り起こし、東京に持って帰ったらしいのです」
記録によれば、父がその遺骨を松山の墓に埋葬したのは、戦後2年目の夏、1947年8月のことだ。
瓦礫と溶け合った骨の状態からして、祖父一家は尋常ならざる高温に晒されている、つまり爆心に近いエリアに居た。爆心地周辺の地表温度は3000〜4000度に達し、殺人的な放射線が一瞬にして万物を貫いた。地表をさらった爆風は、最大風速440メートル(時速にして1584キロ/東海道新幹線の最高速度は285キロ)。家屋は跡形もなくなったはずだ。その焦土から、家族の遺骨のみならず、周辺の瓦礫までも肉親の身体の一部のように拾い集めた心情を思うと、やりきれない。同時に、肉親の遺骨が掘り出せただけで幸運ともいえる爆心地の惨状である。




