「野茂さん、本当にありがとうございました」
2025年、アジア選手として初の米野球殿堂入りを果たしたイチローは、記念スピーチの場で、しかも日本語でこう話した。
イチローを筆頭に、松井秀喜、大谷翔平――日本人メジャーリーガーたちの道を切り開いたパイオニアの野茂英雄だが、メジャー移籍当時はかなりのすったもんだがあった。当時、代理人を務めた団野村氏の新著『フィールドから契約へ エージェント人生34年 交渉の記録』(KADOKAWA)から一部抜粋してお届けする。
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複数年契約か、引退か メジャー行きを前に「究極の2択」を迫られた
1994年のオフ。野茂に契約更改が迫っていた。
「メジャーに行きたい」
すでに野茂の腹は決まっていた。だが、球団にそのことを訴えても、どうにもならないことは分かっていた。野茂から相談を受けた私は、次のことをアドバイスした。
まず、こちらから複数年契約を提示すること。野茂がFA権、つまり他球団と自由に入団交渉ができる権利を手に入れるまで、少なくともあと5シーズンが必要だった。だからそれまでの期間を保証してもらいましょうというロジックだ。いかに前例がなくとも、正当な要求だといっていい。
そこからは、2つの筋書きが想定される。
1つ目は――まずありえないことだが――、球団が野茂の要求を受け入れ、複数年契約を認めた場合。私はその場合、年数や年俸次第では近鉄に残ってもいいのではないかと思っていた。
2つ目のシナリオは、球団が複数年契約を認めない場合だ。私はこの可能性がきわめて高いと考えていた。慣行をたてに要求を突っぱね、引っ込めなければ「日本で野球をできなくするぞ」と、任意引退を迫ってくるだろうと踏んだのである。こちらがアメリカ行きを模索していることなど、微塵も考えていないはずだから。
今ではいささか気楽に、ロマンチックに語られる「メジャー挑戦」は当時、そんなトリッキーな作戦を練らないと、扉の錠すら開かなかった。
球団との最初の交渉が行われたのは1994年12月13日。場所は大阪の都ホテルだった。
「野村さん、一緒に来てください」
野茂にそう言われた私は、交渉に付きそうことにした。もっともそれは正式な代理人としてではない。代理人交渉制度がなかった時代のことで、ちなみにいうと日本に公認代理人による交渉を認める制度ができたのは2000年のことである。
