「わがまま」「無謀」――野茂英雄がメジャーへの挑戦を表明した際、こうしたバッシングも起きた。しかし野茂が切り開いた道によって、その後には数々の日本人メジャーリーガーが誕生している。
野茂がメジャー移籍を目指していた1994年オフ、近鉄球団と行っていた交渉の舞台裏を、当時代理人を務めた団野村氏の新著『フィールドから契約へ エージェント人生34年 交渉の記録』(KADOKAWA)から一部抜粋してお届けする。
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「年俸をもっとよこせ、ということでしょう」
この時点でわれわれが要求したのは、あくまで複数年契約だった。
この前年の1993年のオフ、日本で初めてFA(フリーエージェント)制度が導入された。それまで選手が自分の意志で移籍先を決めることは事実上、不可能だった。私に言わせれば、憲法で保障されている「職業選択の自由」の侵害だ。そこで選手会は長年にわたって球団側との交渉を行ってきた。その結果、ようやく実現したのがFA制度である。
自由な選手の移動によって球界を活性化させるという目的には、同じ年に誕生したJリーグの影響もあったといわれている。
それによると、原則的に同一チームに9年在籍(1軍での在籍規定がある)するとFA権を取得し、他球団と自由に移籍交渉を行うことができることになった。それまで、いわば「終身雇用制度」に縛られ、移籍といえば球団側にトレードされるしかなかったことを思えば、まずは第一歩を踏み出したといえる。
これを野茂に当てはめれば、FA権を得るまであと5シーズンかかる計算だった。逆にいえば球団はあと5年、野茂を「保有」できたのである。その間に、もし致命的な怪我でもした場合、球団はいつでも野茂を「自由契約」、つまりクビにすることができる。そんな理不尽なことはない。だからその年数の契約を保証しろというのが「複数年契約」を要求した理由である。
ところが球団側にとってはそうではなかった。
「だめでした」
ホテルのロビーで待っていた私の前に野茂が姿を現したのは、交渉開始からわずか10分後のことだった。球団は複数年契約を認めなかったばかりか、肩を故障してシーズン後半を棒に振ったことを理由に年俸ダウンを提示してきた。われわれの予想どおりだった。
交渉を終えて前田社長は、マスコミに「年俸をもっとよこせ、ということでしょう」と述べ、複数年契約の要求はあくまで「年俸吊り上げのための口実」であり、「次の更改ではサインするでしょう」とまで発言した。
