ひとびとの認知がアディクション化する金融資本主義の時代
カウンセリングセンターの援助モデルは「医療モデル」ではない。アディクションは厳密な医療モデルでは歯が立たないことはおわかりだと思う。ここでもっと広い立場から書かれた一冊の本を参照してみよう。
鈴木直による『アディクションと金融資本主義の精神』(みすず書房)は、思想・哲学的視点からアディクションを論じた人文書である。アディクションをめぐる流れについての説明を要約してみよう。
アルコールやクスリといった物質への依存が中心だった古典的依存症が変貌している。21世紀に入りインターネットを駆使したゲーム障害やギャンブル依存症のような行為のプロセスアディクションの出現を生み、近年ではグローバル経済による金融資本主義が世界を覆い、ひとびとの認知機能そのものがアディクション化していくだろうと。
資本主義そのものがカジノ化し、メジャーな銀行が率先して投資を煽る姿に隔世の感をおぼえるのは私だけだろうか。アディクションという言葉は、このように狭義の精神科医療を超えて、インターネットの世界だけでなく、グローバル経済に支配される世界を読み解く言葉になっている。
この視点は、私自身が肌感覚として日々感じとっているものと共通している。日常生活の感じ方、考え方、とらえ方そのものがアディクション化しつつある。「推し活」はその一例でしかない。
さらに鈴木の主張に添ってその構造をくわしく見ていくと、共通するものがある。
自発的選択の強制というパラドクス
鈴木によるアディクションの定義は次のようなものである。いささかわかりにくく難解な言い回しだが、なかなかすぐれた定義だと思う。三つのキーワードを太字にしてみた。
「アディクションとは、自発的選択がもたらす短期的報酬によって動機づけられたオペラント行動を、しばしばみずからの意志に反して、反復的に継続する状態をさす。」(強調は筆者)
自発的選択が出発になるという点は重要だ。なぜなら、子どもたちはやりたいこと、なりたい仕事を持つように早期から強制される。ことあるごとに「好きなことをみつけなさい」「やりたいことを見つけなさい」と言われ続けるのだ。ふりかえってみると、遠い昔だが、小学生のころに自分が何をしたいか、何になりたいかなど、考えたこともなかった。
しかしそれは表向き強制ではないことがポイントだ。やりたいことを「自発的に」見つけなければならない。それはおとなになっても続く。やりたいことをやるという「自発の強制」という言語矛盾がそこに生まれる。
そこに潜む罠はなんだろう。選んだのは自分だという結果責任だ。ひとことでも文句を言うと「だって自分で選んだんでしょ」「やりたいことをやったのはあなたでしょ」という地獄への道が待っている。
自発的選択を半ば強制されるという逆説、その結果はすべて自分にあるという装置。
これらはすべて檻ではないだろうか。
やりたいことをやるという呪いに掛けられ、檻に閉じ込められたひとたちは、「推し」をつくることで、かろうじて「やりたいことをやっている私」をみつけることができる。多くの人たちが、「これが私の推しです」と言ってケイタイの待ち受け画面を誇らしげに見せるのは、どんなに世情が不安定でも、どんなに物価が上がろうが、私はこうやってやりたいことを見つけて(自発的選択)いるんですよ」ということのデモンストレーションのように思える。私はいつもそんな姿を見るたびに、痛々しく思ってしまう。
