高度成長期の猛烈社員を蝕んだアルコール依存症から、令和の今、依存症の最前線は居場所を探し求めて歌舞伎町にたどり着いた少女たちのオーバードーズへ。依存症の変容を辿ると、この「失われた30年」で日本社会が直面した崩壊の姿が見えてくる。
信田さよ子さん『溺れながら生きる ケアと依存のあいだで』より、依存症(アディクション)を通じて時代の変容が綴られた箇所を一部抜粋してお届けする。#前篇
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時代とともに姿を変える依存症
自分の生まれ育った国がゆるやかに転落していくような感覚にとらわれるようになったのはいつからだろう。戦後間もなく生まれた私は、輝かしい高度経済成長期も知っているし、ジャパン・アズ・ナンバーワンともてはやされた頃も経験している。フランスのシャルル・ド・ゴール空港に降り立った際、空港ビルのあらゆるところに日本企業の宣伝と日本人デザイナーの名前を見て誇らしく思ったこともある。シャンゼリゼ通りのルイ・ヴィトンの店の前に日本人が長い行列を作っていた光景も懐かしい。今ではヨーロッパをはじめとする観光地を席巻しているのは中国人か韓国人だ。
円安がいっこうに止まらず、かつての栄光を知らない若い世代は、そもそもパスポートを持っていない。海に囲まれた小さな島国で、インターネットやSNSをとおしてあたかも世界を知ったかのような錯覚に陥り、ひたすら内向きに生きる。
平成生まれの同業者の男性たちは、「信田さん、僕たちずっと下り坂しか経験していないんですよ」と自嘲気味に語る。
依存症には時代や社会の状況がついてまわる。とすれば、1970年代から1980年代にかけての依存症と現在のそれとは大きく異なるはずだ。低成長がつづき、円の価値がかつての半分近くまで下落し、アジアの中での存在感が揺らいでいる時代、依存症はどのような姿を見せているのだろう。
高市早苗首相の「働いて、働いて、働いて」
20代だった私が最初に精神科病院で出会ったのがアルコール依存症の男性たちだった。70年代から80年代にかけてのアルコール依存症は、日本全体が抱えていた上昇志向と無縁ではない。女性初の総理大臣に選ばれた高市早苗氏が党所属議員向けのあいさつで語った言葉を聞いて、遠い昔の彼らの姿を思い出した。
「ワークライフバランスという言葉を捨てます」
「働いて、働いて、働いて、働いて、働いて参ります」
70年代に私が出会ったアルコール依存症の男性たちもそうだった。酒はガソリンだと公言する人もいた。彼らは飲んで働いて、働いて、働き続けたのである。
1960年代半ばから1970年代初め、敗戦国から世界の一流国へと見事に変貌を遂げた日本の姿を世界に示すための試みが東京オリンピックや大阪万博だった。石炭から石油へとエネルギー政策の転換が起こり、建設現場には膨大な数の日雇い労働者が全国から集められた。
そのころ、街角で酔っぱらっていたホームレス(当時は浮浪者と呼ばれた)たちを精神科病院の中に「アル中=慢性アルコール中毒者」として包摂しようという試みも始まった。東京オリンピックの前年に、日本初のアルコール依存症専門病棟が神奈川県の国立療養所久里浜病院(現・国立病院機構久里浜医療センター)内に設置された。病棟は新築されたわけではなく、海辺にあった海軍の結核専門病院の転用に過ぎなかったが。
信じられないかもしれないが、当時「戦争トラウマ」などという言葉はまったくリアリティを持たなかった。戦後80年の2025年、メディアではあの戦争がもたらした精神的被害やトラウマが取り上げられていたが、70年代のアルコール依存症の治療現場では、誰一人として彼らの飲酒の淵源に戦争経験があるなどと考えてはいなかった。もちろん私もである。戦争は「二度と繰り返してはならない」ものであり、「平和こそがすべての基本」というスローガンの基本になりこそすれ、精神的被害といった文脈でとらえられることはなかったのである。トラウマという概念もなかったし、戦争は過去のものでしかなかった。
高市総理の言葉は、80年代のバブル期を迎えようとする日本のモーレツサラリーマンと「24時間戦えますか」というCMソングを彷彿とさせた。多くの男性たちが、寝食を忘れ、家族を犠牲にしてまでも会社のために働き、時には社畜とさえ言われた。彼らは仕事のつきあいや交渉のために飲み、眠るために飲み、たまの休日にリラックスするために昼間から酒を飲んだ。「仕事のために飲んだ」という言葉は、アルコール依存症の病棟で聞かされた常套句だった。


