アディクションの主役は女性に
あれから40年近く経ち、日本の姿も依存症者の姿も変わった。働き続けて飲みつぶれ、家族を犠牲にする。そんな破滅的飲酒を彩っていた「男の美学」も今ではすたれてしまった。そこに躍り出たのが女性たち、それも若い女性たちである。今から26年前の拙著『依存症』に、私はこう書いた。
「依存症とは(略)よりよく生きようとする姿勢の延長線上にある」
「よりよく生きよう」という表現は、今なら「生き延びるため」と書くだろう。かつての依存症の世界の主役だった男性(おじさん)たちも、生き延びるために飲んでいたことは間違いない。しかし彼らには、家族(親、妻、子ども)というバッファー(緩衝材)があった。ケアしてくれるパートナーがおり、頼ってくれる子どももいた。飲酒によって生じる犠牲者が確実に存在していたのである。飲酒によって転落するだけの高度があった。
しかし2026年の今、依存症の世界の主役である女性たちには、犠牲をはらってくれる存在はいない。ケアしてくれる家族も期待できない。彼女たちが依存できる人間は 不在なのだ。 人に依存できない彼女たちは、アディクション(嗜癖)の対象に依存するしかない。生き延びるために薬や酒を用い、さまざまな行為に嗜癖する。そこにはなんのバッファーもない。転落どころか最初から底なのだ。
解放区であった歌舞伎町から未成年売春の行われるトー横へ
かつて新宿のトー横のあたりには新宿コマ劇場があった。広大な劇場の舞台がコマのように回ることで観客はさまざまな角度から歌手を眺めることができた。有名演歌歌手などのショーもあり、夜までにぎわっていた。学生時代、私もしばしば歌舞伎町に通っていた。新宿東口を出て紀伊國屋書店横の通りを過ぎ、靖国通りの信号を渡ると歌舞伎町に入る。歌舞伎町一番街を進むとコマ劇場広場に突き当たり、そこを右手に曲がるといくつもの有名ジャズ喫茶があった。いつもつるんでいた友達5人と入り浸っていたのが「ジャズヴィレッジ」(略称ジャズヴィレ)だった。ごった煮的で猥雑な空間だったが、大音量のジャズを聴きながらハイミナール(睡眠薬)をやっている人も珍しくはなかった。タバコの煙が立ち込めていて周囲の人がどんな様子かもあまり見えなかった。
コマ劇場の前には噴水があった。東京六大学の野球で早稲田が勝つと必ずそこの噴水に飛び込むものと決まっていた。深夜まで飲んで騒いで、最後はコマ劇場広場にある噴水に飛び込む学生が跡を絶たなかった。今では考えられない光景だ。
のちに池は潰されて、コマ劇場はなくなり、広場となったのである。そこに集まってくるのはどこにも居場所のない未成年の女子と、彼女たちを目当てとするさまざまな男性たちである。パパ活と言えば明るいが、未成年者の買春が公然と行われている。警察の取り締まりや、声かけや保護といったボランティア活動も行われているがイタチごっこである。

