今から30年前の1996年7月28日は、有森裕子がアトランタ五輪で銅メダルを獲得した日だ。銀メダルに輝いたバルセロナ五輪からの4年間は、決して順風満帆なものではなかった。周囲との軋轢やメンタルの不調、そして両足の手術。度重なる挫折を乗り越え、アトランタの地で「初めて自分で自分をほめたい」と語るに至った軌跡とは……。(全4回の3回目)
◆◆◆
有森裕子はバルセロナ五輪で銀メダルを獲得した翌月(1992年9月)、雑誌の取材を受け、次のように語っていた。
《オリンピックって、大会そのものはあっけない。でも、そこに至るまでの過程は大きいし重いですね。あの日までにやってきたこと、思ってきたこと、その結果、変わってきた自分が一番の財産です。あの銀メダルはこれからは自分の走りたいように走れるという余裕と自信を与えてくれましたね》(『AERA』1993年1月26日号)
だが、「これからは自分の走りたいように走れる」との期待はもろくも崩れ去る。当時所属したリクルート・ランニングクラブの小出義雄監督からは、バルセロナ五輪が終わった翌日に「次は駅伝だな」と言われ、愕然としたという。あとから思えば、小出は有森が天狗にならないように現実に引き戻したのかもしれない。
しかし、そのときの彼女は次の五輪で金メダルをとるため一日でも早く強化を始めたかっただけに、希望とかけ離れた状況を受け入れられない自分がいたという。
大自然のなかでのトレーニング
リクルートに入ったときから、実績がなければ何も認められないことを痛感していた有森は、早い時期からプロに近い意識を抱くようになる。そしてバルセロナでワレンティナ・エゴロワと死闘を繰り広げ、相手が自分以上に何かすごく強いものを持っていることに気づくと、本当のプロ意識を持ったアスリートにならなければと思った。
バルセロナ五輪の翌年、1993年初めには兄の住むニュージーランドへ行き、ひと月ほど大自然のなかでこれから自分は何がしたいのか考えるため、自主トレーニングに励んだ。
