ちょうど同時期、バルセロナ五輪の男子マラソンで優勝した韓国の黄永祚が同じ病気で左足の手術を受けるため、その医院に現れた。黄はバルセロナ五輪のあとに右足の手術を受け、有森が入院する前月には広島アジア大会で優勝して復活を証明していた。その黄から「姉さん、まだ金メダルがあるじゃない」と言われ、彼女は、自分はオリンピックに出るチャンスのある人間だと、希望を抱くことができたという。
術後、リハビリを経て退院。翌1995年8月、北海道マラソンで復帰し、大会新記録でみごと優勝する。このときには、あとに続くアスリートたちのためにも、自分はもう一回オリンピックに出て実績を残し、選手の環境を少しでも変えたいと考えるようになっていた。そのため、色はともかくメダルは必ずとらなければと決意する。
1996年7月のアトランタ五輪のレース本番を1ヵ月後に控え、有森は不安を抱えていた。いままで成果をあげた大きな大会の前には必ずといっていいほど故障や体調不良に悩まされたが、このときはあまりに順調すぎて、不安がないことが不安という矛盾に陥ったのだ。
彼女が自ら命を絶つのではないかと心配して…
最後の追い込みのための、米コロラド州で一軒家を借りての高地トレーニング中は、かなり情緒が不安定な状態にあった。小出監督は、彼女が自ら命を絶つのではないかと心配して、毎晩彼女の部屋を見張り、スタッフにも、部屋から不審な声が聞こえたらすぐに駆けつけるよう頼んだという。
有森はそんなふうに周囲から見守られながら、合宿中、ふと目に入った大自然の光景に、疲れ果てた心を癒された。おかげで、大舞台のスタートラインに立てただけで、全身がうずくような喜びに包まれた、かつての自分に戻ろうと思い直すことができたという。
アトランタ五輪でのレースを3位でゴールインしたとき、彼女が「初めて自分で自分をほめたいと思いました」と口にしたのは、バルセロナでの銀メダル獲得からの4年間、何度も失意に沈みながらも苦闘を乗り越えたという感慨が込められていたのである。
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