いまから30年前の1996年7月28日は、アトランタ五輪の女子マラソンで有森裕子が銅メダルを獲得した日だ。レース後のインタビューで発した「初めて自分で自分をほめたい」という言葉は名言として広まり、今なお語り継がれている。だが、その道のりは順風満帆ではなく、1992年バルセロナ五輪で銀メダルを獲得するまでは、数多くの“苦い経験”もあった。(全4回の2回目)

1992年バルセロナ五輪で銀メダルを獲得した有森裕子。金メダルのワレンティナ・エゴロワ(ロシア)と ©文藝春秋

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 有森裕子は日本体育大学の4年生のとき、当初進むつもりだった教師への道を断ち、走り続けると決めた。そして大学卒業の前年(1988年)の秋、友人に教えられて創設まもないリクルート・ランニングクラブ(リクルート社の陸上部)の門を叩く。同クラブでは、この年監督に就任した小出義雄が高校教員時代に培ったネットワークを活かして部員を採用しており、高校で実績を残した精鋭が集まっていた。

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 そのなかで有森にはめぼしい実績がなく、小出は採用に難色を示す。そこを彼女は高校の陸上部に入るときと同じく粘りに粘って、やっと入部が認められた。小出は、彼女が日体大の女子寮で寮長をしていたと聞き、選手としてものにならなくても、マネージャーになってもらえば役に立つかもしれないと思っていたらしい。

 翌1989年春に入部した彼女の走りを見て、小出は失望する。バネがないうえ、腰の位置が低いので、走りが重く、チームではいつも後ろから1、2番だった。こんなに遅くては出す種目がないと、彼は頭を抱えた。

中距離からマラソンへの転向

 それでも当初の思惑どおり、有森をすぐマネージャーに転向させなかったのは、彼女がとにかく練習熱心で、強くなりたいという姿勢が感じられることと、下り坂の走りが得意だったこと、さらに競り合いになると、スピードのあるランナーに死にもの狂いでついていく粘りがあったからだという(小出義雄『夢を力に!――「大化け」の方程式』改訂新版、ザ・マサダ、2000年)。

 ここから小出は彼女はマラソン向きだと思った。800メートルや1500メートルでは素質が大きくものをいうが、マラソンなら練習の質と量しだいで大成する可能性がある。そこで有森に「やってみる気はあるか?」と訊ね、強制はせず、最終的な判断は本人にゆだねた。

 押しつけられたという意識を持たれては、けっして強くなれないとの考えゆえだが、それは、何事も自分で決断する彼女の性格にも合っていた。彼女は監督の提案を受け入れ、さっそくマラソンに転向すると、まずはハーフマラソンやロードレースに出場して、経験を積む。